一遍上人と念仏剣舞に直接的な関係があったことを示す資料は確認できなかった。しかし、念仏剣舞という形態に変わっていく前の〈念仏踊り〉を、大衆に広めたのは、一遍上人であるという説、江刺郡(現北上市)に、祖父河野通信の墳墓を訪ねたことが念仏踊りを伝えるきっかけとなった重要な出来事として、下記資料に記されている。
『一遍上人祖父通信ヒジリ塚』
⇒ヒジリ塚とは、岩手県北上市稲瀬町水越にある塚のこと。『一遍上人絵伝』により、ヒジリ塚は通信の墳墓であると確認された経緯などの記載がある。
『北上市史 第2巻』
⇒p241~242【一遍、祖父通信の墳墓を法要する】
「(河野通信は、)奥州へ流され極楽寺へ預けられ、今の北上市稲瀬町安楽寺の地に庵を結んで住していた。そして二年後、1223年5月19日病没した。―(略)―1280年(弘安3年)の秋-(略)―(孫の)智真は遊行を本願とし、九州、四国を巡り、京都から北陸道、信濃をへて武蔵、上野、下野から白河をこえて奥州に入り江刺郡にきて祖父通信の墓(ヒジリ塚)に詣でたのである。智真42歳であった。このとき見ゆるかぎりが芒の野であり茨と笹と松などがそちこちにみえていたが、ろくな花もなく智真は弟子たちとともに芒の穂をあつめて華供(けく)として堯道念仏(ぎょうどうねんぶつ)したのであった。やがて智真は一遍上人といわれ、時宗の開祖となったのであるが、時宗最高の法要が「すすき念仏」で、一遍上人が祖父の墓前で転経念仏をしたときの再現の法要であるという。」(一部抜粋)
『日本絵巻大成 一遍上人絵伝』
⇒p105~113図版【一遍聖絵巻第四 第十六段】
信濃国小田切里で踊り念仏を始める
⇒p123~130図版【一遍聖絵巻第五 第十九段】
白河関を通り、江刺郡に祖父通信の墓を訪ねる
『一遍上人』
⇒p110~126【第七章 はねばはねよ をどらばをどれ】
「踊りは、まさに民族の文化とともに古い歴史をもっている。それについても、鎮魂儀礼としての、「タマ(霊)シズメ」、「タマフリ(振り)」などとして考えられるものや、また、「ヤスライ花」踊りなど農耕行事にかかわるものもあるというのが説である。―(略)― 今日に伝えられる、念仏踊りの類も、全国に様々な形で、大念仏踊り、六斎念仏、盆踊りや、獅子踊りなど、民間芸能として極めて数が多い。むしろ、それらの鎌倉時代の源流として、一遍の念仏踊りがあるともいえるのである。」(p122 一部抜粋)
『一遍上人と遊行の寺』
⇒p68~70【無量寿山 光明院 長光寺】河野通信公墓守り道場
「遊行をつづけて行くうち小田切の里で踊り念仏が起った。―(略)― 一遍は偶発的におきた踊り念仏への不安と動揺を、この旅の中で確認し、祖霊に額づくことで決定したのではないだろうか。」(一部抜粋)
⇒p200~202【紫雲寺 来迎院 金台寺】踊躍念仏初開之道場
「小田切の里で驚くべき冥界との交流を一遍は体験した。踊り念仏が口称念仏にまさるとも劣らないことをこのとき悟った。」(一部抜粋)
⇒p223~227【一遍上人の略年表】
『念仏剣舞』
⇒p1【第一章 踊り念仏から念仏剣舞へ 第一節 時衆のみちのく回国 (一)時衆と踊り念仏】
「踊り念仏が空也上人に始まり、鎌倉時代に入って一遍上人によって大衆化が図られたというのが定説であり、その後の風流化によって踊り念仏が念仏踊りとして多様な変化を見せ、あたかも百花の咲き乱れる如く全国各地に多彩な風流踊りを現出してきたのであるが、念仏剣舞も風流の念仏踊りの一形態として、みちのく岩手に独自な芸能を根付かせ発達を遂げてきた。―(略)― 踊り念仏の伝播者として第一に挙げられるのは、一遍上人を宗祖とする遊行の時衆聖たちの組織的とも言える布教活動である。しかし彼等の活動を示す記録は極めて乏しく―(略)― 念仏剣舞の由来を語る伝本には、一遍上人や時衆に関することは全く記録がないと言ってよい。僅かに口頭伝承として、気仙地方の念仏剣舞に、一遍上人が平家一門の亡魂済度のため鎌倉幕府の依頼を受けて大法要を営んだ際の踊り念仏に始まるといい―(略)―」(一部抜粋)