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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼浦-2008-072
事例作成日
(Creation date)
2008/12/20登録日時
(Registration date)
2009年04月23日 02時11分更新日時
(Last update)
2009年04月27日 14時40分
質問
(Question)
喜多院(川越市)の前身は無量寿寺というのが通説だが、別の寺であった可能性はあるか。また、喜多院関係の文書が掲載されている資料を教えてほしい。
回答
(Answer)
喜多院の前身は無量寿寺という通説が掲載された資料しか見つけることができなかった。喜多院関係の文書が掲載されている以下の資料を紹介した。

『川越市史 史料編 近世2』
p793-808「喜多院文書」の項には、「星野山御建立記」(万治2年以後)、「仙波喜多院領配当目録写」(正保元年)、「仙波東照宮御神領并喜多院領配当目録写」(貞享2年)、「御供所年中行事略記」(元治2年)、「山内諸建物覚」(明治2年)が掲載されている。
p809-813「中院文書」の項には、「北院中院両院法度」(文禄2年)、「北院中院両院定書」(文禄3年)、「某証状」(慶長12年)、「尊純証状」(慶長13年)、「某証状」(不明)、「酒井忠利神領寄進状」(慶長19年)、「紋白花帽子制書」(慶安3年)、「松平信輝書状」(寛文12年ヵ)が掲載されている。

『埼玉叢書 3 新訂増補』(国書刊行会 1970)
p299-322「星野山仏地院濫觴」、p323-325「武州入間郡仙波郷星野山無量寿寺喜多院縁起」、p326-328「武州入間郡仙波郷星野山無量寿寺喜多院記」

『埼玉叢書 6 新訂増補』(国書刊行会 1972)
p364-366「仙波御建立記録」、p367-368「中院縁起文」、p369-375「仙波中院灌頂記録」

『新編武州古文書 下』(角川書店 1978)
「中院文書」の中で関係するものは、p316「喜多院仙海書状」(永禄11年)、「北中両院法度」(『川越市史 史料編 近世 2』にも所収)、「両院定書」(『川越市史 史料編 近世 2』にも所収)

『埼玉県寺院聖教文書遺品調査報告書 1 目録編』
※本書は、「現地調査を実施した一寺院毎の総史料目録である。ただし、スペースの都合で全調査史料を掲載できない(以下略)」という内容の資料。
p26-32に喜多院所蔵史料の目録が掲載されている。p32-34に中院所蔵史料の目録が掲載されている。

『埼玉県寺院聖教文書遺品調査報告書 2 解説・史料編』
p59-64に喜多院所蔵文書の一部が掲載されている。p64-75に中院所蔵文書の一部が掲載されている。
回答プロセス
(Answering process)
川越市および喜多院関係資料を調査したが、通説以外の記述は見あたらず。
『川越市史 2〔1〕 中世編』(川越市 1985)
p356-360に、無量寿寺の開創について記述あり。
「この無量寿寺の開創は、各種の縁起によれば、芳道仙人(『星野山仏地院濫觴』)、あるいは仙芳仙人(『武州入間郡仙波郷星野山無量寿寺喜多院縁起』)と称する人物が、仙波の地に至った時、湖水であった当地から祥雲の起こるのをみて、過去仏である毘婆尸仏説法の遺跡と感得して、湖水の神竜の助けを得て寺を建てたとするものである。その後、天長七年(八三〇)に慈覚大師円仁がこの地を訪れ、改めて寺院を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜わり、天台宗寺院として成立したと伝えている。これらの伝承のうち、前半の芳道仙人云々は、寺院の所在する土地との因縁を説明するもので、古刹の縁起には多くみられるパターンである。後半の円仁再興伝承は、前に述べたように他に史料がなく、また円仁自身が東国布教を行った形跡もないため、不明というほかはないが、このころ天台宗寺院としての無量寿寺が成立した可能性は、外護者(寺院建立の経済的支援者)などは全く不明であるにしても、充分に存するのではなかろうか。ともあれ、円仁開山説は勧請開山(禅宗で用いられる語で、実際の開山が自分の師を名目的に開山として招くもの)の可能性も含め検討する必要があろう。」
※無量寿寺の開創については史料が少なく、はっきりとしたことは不明のようである。
つづいて、13世紀末に尊海により無量寿寺が再興され、「教学の中心的な談義所としての性格を、同寺の院号である仏地院と称する一院を建立してそれに当てたようで、これ以後、無量寿寺というより仏地院を中心として同寺は発展していく。後の中院である。」とある。「また尊海は求聞持法の修法を行うため、別に仏蔵院を建立している。これが後の北院(喜多院)である。今は廃寺となった南院も、おそらくこの頃の成立であろう。」とある。

『川越市史 3 近世編』(川越市 1983)
p88-115「第六節 喜多院と天海」には、天正18年(1590)星野山無量寿寺に天海が来たり、北院第26世豪海権僧正に師事し、名を天海とあらため、慶長4年(1599)12月豪海が入寂し、天海は北院第27世として法統を継いだ、という旨の記述あり。無量寿寺の別説については特になし。

『埼玉県寺院聖教文書遺品調査報告書 2 解説・史料編』 p7-8に略史が掲載されている。無量寿寺の別説については特にないが、p8に「特に足立郡出身の尊海は、兵火にかかり衰亡していた川越仙波の無量寿寺を永仁四年(一二九六)に伏見天皇の勅を得て再興した。この時、同時に仏地院(中院)を、のちに仏蔵院(北院-喜多院)を建立している。」とある。p64「曼殊院覚恕令旨」(永禄元 応鐘中旬 1558年)の文書の中に、「武蔵国星野山無量寿寺仏地院」(仏地院はその後中院)の名がみられる。天海が豪海に師事したとされるのは天正18年(1590)であるが、天海が北院に現れるより前から<無量寿寺>という名は使われていたと推測されるが、詳細はわからない。

『喜多院 上 歴史 さきたま文庫27』(さきたま出版会 1991) 無量寿寺の別説については特になし。
『川越の歴史』(川越市 1982)p59-63「仙波の無量寿寺と上戸の常楽寺」無量寿寺の別説については特になし。
『川越・城と町まちの歴史』(聚海書林 1982)p137-167「四 喜多院とその周辺」の「喜多院の略史」 無量寿寺の別説については特になし。
岸伝平「天海大僧正の逸聞」(『武蔵野史談 3(4)』p10-16)p10に略史はあるが通説。また、「昔は北院(仏蔵院)中院(仏地院)南院(学寮)と一山三院七坊があり、星野山無量寿寺と総称して寺運も盛んであった。」とある。
斎藤貞夫「新発見の天海喜多院法度文書について」(『埼玉史談 33(2)』p43-46)p45-46に喜多院の歴史年表はあるが、無量寿寺の別説については特になし。
宇高良哲「家康をめぐる埼玉の高僧達」(『埼玉県史研究 32号』p15-20)p15-17にある「天台宗川越喜多院南光坊天海」は、天海の事績が主で、無量寿寺については特になし。
大護八郎「埼玉そのむかし(23) 川越と天海」(『埼玉自治 1959年7月号』p26-27) 内容は小説的で、天海が喜多院と名をかえてから、時代を下っているため対象外。
『小田原衆所領役帳』(近藤出版社 1969)p173に、「北院中院南院 五拾五貫文 仙波之内」とある。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
各宗  (188 9版)
日本史  (210 9版)
貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション  (090 9版)
参考資料
(Reference materials)
『川越市史 史料編 近世2』(川越市 1977)
『埼玉叢書 3 新訂増補』(国書刊行会 1970)
『埼玉叢書 6 新訂増補』(国書刊行会 1972)
『新編武州古文書 下』(角川書店 1978)
『埼玉県寺院聖教文書遺品調査報告書 1 目録編』(埼玉県教育委員会 1984)
『埼玉県寺院聖教文書遺品調査報告書 2 解説・史料編』(埼玉県教育委員会 1984)
キーワード
(Keywords)
喜多院(川越市)
無量寿寺
寺院-川越市-埼玉県-歴史
史料
郷土資料 
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
個人
登録番号
(Registration number)
1000054098解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
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