レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年06月18日
- 登録日時
- 2013/04/05 17:01
- 更新日時
- 2014/09/02 00:30
- 管理番号
- 10-3A-201304-01
- 質問
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解決
大阪環状線の竣工について知りたい。
- 回答
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大阪市の中心部を一周するJR西日本(旧国鉄)の大阪環状線は、昭和36(1961)年4月25日、境川信号場~西九条間が結ばれ、環状運転が開始されました。『鉄道ピクトリアル 1989年12月号』掲載の写真では、同時に開業した弁天町駅(港区)での国鉄大阪環状線開通式の様子を窺うことができます。開通式の写真は『昭和の大阪』にも掲載されています。
東側の城東線と西側の西成線、及び関西本線の3つの国有鉄道線を結んで環状線にしようという計画は、遡って昭和8(1933)年、大阪市の都市計画委員会において環状線の実現を推進する旨の建議が正式に行われています。しかし、当時の大阪市は水の都と言われていた通り河川運河の舟運が発達しており、特に安治川は大小船舶の往来が頻繁で、船津橋下流は無橋地帯となっていました。したがって当時の計画では安治川の渡河は河底ずい道によっていましたが、これはずい道取付部分における道路に対し重大な支障を起こす点に難点があり、軟弱地盤のため、工事施工に技術的な困難性があり、またこの附近は大阪港を控え、人家が密集していたため用地買収も困難が予想されました。このような理由に加え、大戦の影響で大阪環状線の計画は頓挫します。
戦後、環状線の建設を必要とする世論が再び高まり、安治川架橋の計画とその問題が浮上します。国鉄当局の原案は、桁下空間7.8メートルの鉄橋を架ける計画でしたが、架橋の上流にあたる中央卸売市場や海運・倉庫業者らが諸船の航行に障害をもたらすからと計画の変更をつよく要望します。中央卸売市場のある福島区下福島の地、その対岸は明治初期の大阪開港時の富島の波止場があり、船舶航行至便の地でした。 こうした要望に応え、国鉄側は架橋の桁下高を12.25メートルに改め、環状線の新設部分といってもわずか2.5キロメートルほどでしたが、ようやく実現に漕ぎつける運びとなりました。
工事は昭和34(1959)年9月に着工し、昭和36(1961)年に竣工、西九条-天王寺間の旅客運転が開始され、この日より、城東線と西成線は大阪環状線と改称しましたが、高架工事が未完成のため、旧西成線と新規開業区間のレールがつながっておらず、名実ともに環状線となったのは昭和39(1964)年3月22日のことでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 鉄道運輸 (686 9版)
- 参考資料
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- 『鉄道ピクトリアル 1989年12月号 大阪環状線』 鉄道図書刊行会 <当館書誌ID:00801965>
- 『昭和の大阪』アーカイブス出版 2007 <当館書誌ID:0011401419>
- 『大阪工事局40年史』日本国有鉄道大阪工事局 1968 <当館書誌ID:0080207701>
- 『大阪駅の歴史』大阪ターミナルビル株式会社 2003 <当館書誌ID:0010540365>
- 『大阪春秋 69号 おおさかの乗りもの』大阪春秋社 1992 <当館書誌ID:0000285922>
- 『大阪春秋 92号 大阪環状線』大阪春秋社 1998<当館書誌ID:0000698325>
- 『復刻版日本国有鉄道百年史 第13巻』成山堂書店 1997 <当館書誌ID:0000781445>
- 『関西の土木100年』 土木学会関西支部 1968 <当館書誌ID:0080163259>
- キーワード
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- 大阪環状線
- 鉄道
- 国鉄
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000130070