レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月23日
- 登録日時
- 2013/12/08 11:15
- 更新日時
- 2013/12/08 11:15
- 管理番号
- tr290
- 質問
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解決
慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)の誕生地が知りたい。栃木県の壬生町説(「御影堂建立由来記」)と岩船町説(盥窪伝説)があるようだが、何か資料はあるか。
- 回答
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1 県史、町史からの調査結果について
・『栃木県史 史料編 1.古代』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1974)
p181-200にある「慈覚大師伝」の冒頭に、「諱円仁、俗姓壬生、下野国都賀郡人也」とあります。
・『栃木県史 通史編 2.古代(2)』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1980)
上記「慈覚大師伝」を受けて、p389-391の「慈覚大師円仁」の項で、「円仁(慈覚大師)は、下野国都賀郡の壬生氏の出」とのみ述べられています。
・『栃木縣史 第11巻 史蹟名勝編』(田代善吉/著 京都 臨川書店 1972 下野史談会 1938刊の復刻)
p387-389の「慈覚大師誕生地」の項に、岩舟説と壬生説の両説を挙げ、どちらと確定はできないとした上で、盥窪等の伝承を紹介しています。
・『壬生町史 通史編 Ⅰ』(壬生町/編 壬生町 1990)
p255-263に、「慈覚大師円仁」の章があり、その中の「誕生の地」の部分に、
円仁誕生の地は都賀郡とのみで、諸伝に詳しい記述はなく
とした上で、壬生町の紫雲山壬生寺の誕生井、三毳山の麓の下津原の盥窪の伝承が紹介されています(p255-256)。なお、盥窪伝承の出典は『下野国誌』との記載があります。
・『壬生町史 資料編 原始古代・中世』(壬生町史編さん委員会/編 壬生町 1987)
p868-869に掲載された「香淳聞書(抜粋)」に以下の記述があります。
「○慈覚大師出生ノ地
慈覚大師出生ノ地ハ今壬生ノ新町トソ、今大師堂アリテ時々御門主御立寄アリ」
「○慈覚
此説非也、都賀郡壬生氏也、
自覚大師出生ノ地ハ、盥窪下津原村ノ辺」
・『壬生町史 民俗編』(壬生町史編さん委員会/編 壬生町 1985)
「第6章 家のまつり・社寺のまつり」の「2.社寺のまつり」の「(3)壬生寺信仰とそのまつり」(p216-225)に、「御里(今の上新町)」で円仁が生まれたとの記述があり、産湯の井戸の信仰が紹介されています(p216)。なお、慈覚大師の誕生日である旧暦3月14日に行われていた「大師さま」という祭りや、壬生寺の節分会も併せて紹介されています。
・『岩舟町の歴史』(岩舟町教育委員会/編 岩舟町 1974)
p28-38に「第4章 第1節 勝道上人と慈覚大師」があり、その中の「岩舟の生んだ慈覚大師」に「延暦十三年(七九四)下津原に生まれた。たらいくぼ(手洗窪)はその産湯をつかったところとつたえられる。」とあります(p29)。なお、「岩舟町史(誌)」と言う資料は発行されておらず、こちらが最も町史の内容に近い資料です。
なお、『壬生町史 資料編 原始古代・中世 補遺』(壬生町史編さん委員会/編 壬生町 1990)には、関する記述が確認できませんでした。
2 壬生説「御影堂建立由来記」について
『日光山輪王寺 第20号』(荻原貞興/編 日光山輪王寺門跡執事局 1963)中の、田島隆純「慈覚大師の真の誕生地に就て」(p74-96)の「四 壬生の誕生地に関する記録文書」に、貞享3年11月に、輪王寺の天眞親王が大師堂を建立した時、棟札の裏に書かせたという「堂建立の由来記」の全文が引用されています(漢文)。こちらの資料以外、壬生町史等にも翻刻は確認できませんでした。
併せて、壬生寺(壬生町)と円仁に関する記述が確認できた資料です。
・『下野風土記 全〔乾・坤〕』(佐藤行哉/校訂 栃木県郷土文化研究会 1958)
冒頭の「解説」によると、「元禄初年」に書かれた、「栃木県に於ける最古の地誌書」とのことです。乾のp50-54「慈覚大師旧跡」に「壬生町ノ内也」とあり、「御屋舗内」の井戸を「ウブ水」として紹介しています。なお、続いて引用される「元弘釈書巻之三」には、「姓壬生氏、野之下州都賀郡人也」とのみあります。
・『壬生町わが町の史跡を訪ねて』(壬生町立歴史民俗資料館/編 壬生町立歴史民俗資料館 1989)
p10-11「慈覚大師誕生地(壬生寺)」に「壬生の地御里(新町)に生まれたと言われています」とあります。
・内山正之/著「円仁ゆかりの地 壬生」
(『下野史談 第101号』(下野史談会/編 下野史談会 2005)p32-37所収)
岩舟・壬生のどちらが正しいかは追究しないとした上で、壬生町の円仁ゆかりの資料、伝説などを紹介しています。
3 盥窪を中心とした円仁誕生伝説・伝承について
・『下野国誌』 校訂増補(河野守弘/著 佐藤行哉/校訂 下野新聞社 1989)
1850年初版の資料です。第2巻「名所勝地」の「三香保崎 関」(ミカホノサキ p91-92)に、「八雲御抄」や「日光山紀行」という資料では、ここが慈覚大師誕生の地とされること、盥窪という場所があることが述べられています。
・『慈覚大師』(武田光俊/編 武田光俊 1912)
p3に「下野国都賀郡三鴨郷下津原(今は壬生町といふ處)」で生まれたとあります。
・『岩舟町と慈覚大師円仁』(福井康順/述 岩舟町教育委員会 1972)
講演録です。p31-36で慈覚大師誕生地について、壬生ではなく岩舟と主張されています。
また、その根拠として、田島隆純「慈覚大師の真の誕生地に就て」「慈覚大師誕生地考」、服部清道「慈覚大師盥窪誕生地考」を挙げています。
・田島隆純/著「慈覚大師の真の誕生地に就て」
(『日光山輪王寺 第19号』(荻原貞興/編 日光山輪王寺門跡執事局 1961)p48-70所収)
「壬生は誕生地に非ず」という結論のようです。
・『下野の伝説』(尾島利雄/著 第一法規出版 1974)
p37に「盥窪の由来」があります。併せて、同項に、壬生町の寺に慈覚大師産湯の井があるという紹介もあります(不鮮明だが写真付き)。
・『郷土歴史人物事典 栃木』(柏村祐司/編著 尾島利雄/編著 第一法規出版 1977)
p14-16「慈覚大師」の冒頭に、「現在の下都賀郡岩舟町下津原盥窪の地(一説には下都賀郡壬生町の紫雲山壬生寺の地ともいわれる)に生まれ、俗姓を壬生氏といった。」とあります。
・『しもつけ物語 人物編・第3集』(栃木県連合教育会/編 栃木県連合教育会 1987)
p50-70「慈覚大師(円仁)」の冒頭に、「円仁の誕生地は今の岩舟町の手洗窪、また一説には、壬生町の壬生寺」とあります。また、「手洗窪の御盥池(岩舟町)」「慈覚大師誕生浴井(壬生寺)」などの写真が紹介されています(p51)。
・『郷土の産んだ慈覚大師円仁』(慈覚大師資料作成委員会/編 岩舟町教育委員会 1994)
円仁の誕生について、「大慈寺の檀家、壬生家に男の子が誕生」(p4)、「東山道に沿う下野国都賀郡とよばれていた三毳山のふもと(今の岩舟町)でのこと」(p5)としています。
・『いわふねの民話』(美寿々すみ子/著 民話美寿々会「いわふね」 2009)
春生(円仁)の話がいくつかありますが、「むらさき雲と春生の誕生」(p1)の話の中で、生誕地は「三鴨山の手洗い窪」と挙げられています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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以下の資料は調査済みとのことでした。
・『慈覚大師研究』(福井康順/編 天台学会 1964)
・『円仁』(佐伯有清/著 吉川弘文館 1989)
・『慈覚大師伝の研究』(佐伯有清/著 吉川弘文館 1986)
・服部清道/著「慈覚大師誕生伝説地盥窪考」
(『日光山輪王寺 第19号』(荻原貞興/編 日光山輪王寺門跡執事局 1961)所収)
- NDC
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- 仏教 (180 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 慈覚大師
- 円仁
- 誕生
- 壬生
- 岩舟
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000141649