レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年01月08日
- 登録日時
- 2010/01/08 09:18
- 更新日時
- 2018/03/07 17:01
- 管理番号
- 10826
- 質問
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解決
香川県内における後醍醐天皇やその皇子に関する伝説、伝承について知りたい。
- 回答
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所蔵資料を調査したところ、後醍醐天皇やその皇子に関する伝説、伝承に次のようなものがあった。
1 後醍醐天皇に関係して
・『古高松郷土誌』(古高松郷土誌編集委員会/編 高松東部農業協同組合古高松支所 1977年)
〔当館請求記号:K2310 F1〕
第一編郷土の移り変り 第六章県政時代 第六節皇室及び皇族と古高松 四、後醍醐天皇(388頁)には、
「『六万寺縁起』に、「鎮守愛宕権現社 本社は後醍醐天皇の御建立 高松左近大夫頼重奉行す といい伝う。
元徳元年高松三郎頼重、本地堂を建立あり」と記している。
2 後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねながしんのう)に関係して
・『香川県大百科事典』(四国新聞社出版委員会/編 四国新聞社 1984年)
〔当館請求記号:K0310 S1〕
宗良親王(むねながしんのう)および田井王屋敷(たいおうやしき)の項(579,907頁)に、後醍醐天皇の皇子、
宗良親王は、1331年(元弘元年)後醍醐天皇の北条氏討伐の画策である元弘の変に参画。
計画が露見して戦ったが利なく、翌年、天皇は隠岐、親王は讃岐守護長井高広に警固され、下津井から詫間に着き、
荘司の詫間三郎に預けられた。三豊市詫間町に宗良親王遺跡の田井王屋敷がある。また、三豊市高瀬町下勝間
にも宗良親王来訪の伝承があり、皇子屋敷と称しているなどの記述がある
・『新修香川県史』(香川県教育委員会/編・発行 1953年)
〔当館請求記号:K2100 K2〕
第4編守護時代 第三章軍事 元弘の変と宗良親王・宗良親王の来讃(286~288頁)に、宗良親王が着いた
詫間庄は、後醍醐天皇管領の地で、詫間三郎はその庄司であったと思われるとし、詫間と後醍醐天皇の
関係について述べている。
・『讃岐人物風景 2(戦国の武将たち)』(四国新聞社/編 大和学芸図書 1980年)
〔当館請求記号:K2810 S3 12-2〕
宗良親王の章(118~125頁)に、『新葉和歌集』にある宗良親王の歌「松山といふ所に行きて月日を送り侍りしに
入道大納言為世の許より 松山は心つくしにありしとも 名をのみ聞て見ぬも悲しき と申侍りし返事に
思ひやる心つくしもかひなくに 人まつ山とよしやきかまし」から、松山(坂出東部)に滞在したとする説もあるが、
松山には、宗良親王滞在に関する伝承のようなものは残っていないなどの記述がある。
3 後醍醐天皇の皇子護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)に関係して
・『伝説の風景』(四国新聞社/[編] 香川県立図書館 1996年)
〔当館請求記号:K3881 S2 4〕
本書は、1984年1月3日から1985年6月25日まで四国新聞に掲載された連載記事『伝説の風景』を切り抜き
ファイルに閉じたもので、その37回「護良親王-福栄潜伏記す縁起」において、元弘の変の際、追補を逃れた
護良親王が福栄(現在の東かがわ市白鳥)に潜伏したという伝説を紹介している。
- 回答プロセス
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後醍醐天皇については、Google検索で「後醍醐天皇」をキーワードに、当館が香川県に関係する資料を電子テキスト化しインターネット上で公開している「地域の本棚」を対象に検索したところ、『古高松郷土誌』の目次がヒット。現資料を確認して、「鎮守愛宕権現社 本社は後醍醐天皇の御建立」の記事を見つけた。
宗良親王、護良親王については、『讃岐人物風景 2(戦国の武将たち)』の巻末索引で後醍醐天皇を検索したところ、
同書の宗良親王の章に導かれ、二人に関する伝説、伝承の情報を得ることができた。
この情報をもとに、『香川県大百科事典』、『伝説の風景』などの資料を調査し、その結果を回答した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 伝説.民話[昔話] (388 8版)
- 四国地方 (218 8版)
- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 後醍醐天皇
- 宗良親王
- 護良親王
- 田井王屋敷
- 愛宕権現社
- 皇子屋敷
- 元弘の変
- 香川県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000061731