レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月12日
- 登録日時
- 2013/11/01 14:34
- 更新日時
- 2015/03/27 15:31
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 京都市中央2013-020
- 質問
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解決
平城京から長岡京への遷都と,その後の長岡京から平安京への遷都を,桓武天皇に進言したといわれている人物は誰か。
- 回答
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下記資料1・2より,長岡京遷都の進言者は【藤原種継(ふじわらのたねつぐ)】(2015年3月1日資料7を追記)。
1・3~6より,平安京遷都の進言者は【和気清麻呂(わけのきよまろ)】。
1『日本の歴史 05 律令国家の転換と「日本」(講談社学術文庫)』(網野 善彦/[ほか]編集委員 講談社 2009)
p32~35【種継暗殺】文中に,[種継は藤原氏式家の祖宇合(うまかい)の孫で清成(きよなり)の子であったが,「天皇はなはだ委任し,中外の事皆決を取る」と言われる寵臣になっていた。その進言で始まった長岡京造営の真っ最中,…]とあり。
p38~41【平安楽土,万年春】文頭に,[この時に当たって,心機一転,同じ山背国だが葛野(かどの)郡宇太(うた)村に新京を造営しては,という意見が提出された。和気清麻呂(わけのきよまろ)が主唱者と言われている(『日本後紀』延暦18年〈799〉2月21日条)。]とあり。
2『長岡京発掘(新版)』(福山 敏男/[ほか]著 日本放送出版協会 1984)
p43~45【2 長岡京造営 種継のすすめ】文中に,[都を変えたい。桓武のこの気持をいち早く読みとったのは,藤原種継だったといわれる。…その種継が候補地として強く推したのが山背国乙訓郡長岡村だった。]とあり。
3『平安の都』(笹山 晴生/編 吉川弘文館 1991)
p65~67【平安遷都】文中に,[『日本後紀』の和気清麻呂薨伝(こうでん)によると,長岡新都が10年をへてなお完成せず,費も多いことから清麻呂がひそかに桓武天皇に奏上して遊獵に託して葛野の地を新都としてすすめたとあり,…]とあり。
p70~72【棄都の思想】文中に,[和気清麻呂薨伝(『日本後紀』延暦18年2月21日条)によれば,清麻呂が,「長岡の新都は十年を経ていまだ功ならず,費あげてかぞうべからず」と潜かに奏上したところ,天皇はそれを受け入れて遷都を決意したことになっている(『和気清麻呂伝』も同じ)。]とあり。
4『歴史の京都 1 天皇と武士』(淡交社 1970)
p70~76【平安遷都】文中に,[今や長岡を捨て,平城へも還られないとなると,たとえ河川処理の困難はあっても,この葛野の地を候補に選ばざるをえない。この決意を固めさせたのは和気清麻呂の進言によるもののようで,…]とあり。
5『古代の都はどうつくられたか』(吉田 歓/著 吉川弘文館 2011)
p144~145【平安京へ】文頭に,[こうした状況下で,桓武天皇に新京の造営を進言したのが和気清麻呂であった。]とあり。
6『和気清麻呂公と護王神社』(所 功/著 護王神社 2006)
p46~47【1 再遷都の進言】文中に,[その時(延暦12年正月以前),摂津大夫の清麻呂公は,思い切って桓武天皇に進言された。『日本後紀』に次のごとく記されている。 長岡の新都,十載(年)を経て未だ功成らず。費あげて計るべからず。清麻呂潜かに奏す「上(桓武天皇),遊猟に託して葛野の地を相せしめたまへ」と。さらに上,都を遷したまふ。]とあり。
2015年3月1日追記
藤原種継の伝記が出版されたので,内容を確認した。
7『藤原種継(ミネルヴァ日本評伝選)』(木本 好信/著 ミネルヴァ書房 2015)
p204~207【長岡京遷都と種継】文中に,[種継の薨伝には「初め首として議を建てて都を長岡に遷さむとす」(『続日本紀』延暦4年9月丙辰条)とあって,長岡京遷都を最初に建議したのは種継であった。]とあり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 長岡京
- 平安京
- 桓武天皇
- 藤原種継
- 和気清麻呂
- 都城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000139858