レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20200305
- 登録日時
- 2020/03/25 00:30
- 更新日時
- 2020/03/25 00:30
- 管理番号
- 福郷-105
- 質問
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解決
大正11(1922)年11月17日に来日したアインシュタインは、福岡県にいつ来て、何をしたのか。
- 回答
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(1)アインシュタインが福岡に滞在したのは、参考資料1、2、3他によれば大正11(1922)年12月23日~12月29日。参考資料3『関門・福岡のアインシュタイン』p.70によると、「予定では、この日に帰途につくはずであったが[榛名丸]の都合で3日間延期になり出向は29日になっていた。」とある。
(2)参考資料1、2、3、4、5によると改造社社長山本實彦に招かれたため来日したとある。
参考資料4『博多おやまあ』には、「それを機会に福岡日日新聞が全面的に提携後援して、地元での講演会が実現した。」とあり、参考資料5『西日本新聞百年史』には、「九州に於ける講演会について、協力を求められた福日社は、さっそく後援を快諾、福岡市での講演会開催準備にかかった。」とある。
参考資料1『アインシュタインショック 1』によると、「(山本は)主催者が改造社であることには変りないが、後援という形で、各地方の有力紙を引っぱり込んだのである。」(p.136)とある。
p.140には、12月12日付の手紙でアインシュタインが山本に、福岡と門司に行かないですむよう申し出ていた旨が記されている。p.142に、欧州航路の船便の都合などを口実にする山本に押し切られて、福岡講演を承諾したと記されている。
一方、参考資料6『博多に強くなろう北九州に強くなろう 下』には、福岡講演は当初の予定にはなく、「山本社長に、アインシュタインがぜひ福岡へ行って三宅教授宅を訪ねたいと要望」とある。三宅教授とは、外科医師の三宅速(はやり)教授のこと。来日のために乗船していた北野丸に同乗し、体調不良を感じたアインシュタインを診察した。参考資料8『学士鍋 111号』にも「遥か福岡の地まで足を延ばしたのは、三宅速への表敬訪問という目的があったからである。」とある。
参考資料7『アインシュタインからの墓碑銘』には、北野丸が神戸港に入ったあと、アインシュタインが三宅に別れ際に、九州での講演も引き受けたのでお宅に伺いたいと言った、そして三宅はアインシュタインを迎える準備を始めたと記されている。
(3)福岡滞在中の行動については、参考資料1、2、3、4、9に詳しく記載されているが、大まかに記すと以下のようなスケジュールであった。
12/23 門司に到着。
12/24 福岡市大博劇場にて講演会。
12/25 九州帝国大学訪問、三宅医師宅訪問、門司にてクリスマス会。
12/26 大谷山に登る。
12/27 関門海峡、下関観光。
12/28 終日バイオリンをひく。
12/29 榛名丸にて帰国。
- 回答プロセス
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アインシュタインの訪日に関する資料を所蔵検索と郷土雑誌記事検索で探した。
また福岡県に関する郷土資料については、当時大きな話題となったと思われるため、西日本新聞の社史等にあたった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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- 1 アインシュタインショック 1 金子 務/著 河出書房新社 1981.7 289/3/376-1
- 2 アインシュタイン日本で相対論を語る アルバート・アインシュタイン/著 講談社 2001.10 289/3/1142
- 3 関門・福岡のアインシュタイン 中本 静暁/著 新日本教育図書(発売) 1998.10 K289/ア/
- 4 博多おやまあ 江頭 光/著 西日本新聞社 1977 K226/2/ハ 「アインシュタイン来福 親愛限りなく」p.163-168
- 5 西日本新聞百年史 [西日本新聞社/編] 西日本新聞社 1978 K071//ニ p.300-301
- 6 博多に強くなろう北九州に強くなろう 下 西日本シティ銀行/編 西日本新聞社 2018.11 K209//ハ 「九州大学医学部のきらめく博士たち」p.224-235
- 7 アインシュタインからの墓碑銘 比企 寿美子/著 出窓社 2009.7 289/17/406
- 8 学士鍋 1999年6月 111号 九州大学医学部同窓会 M/KT/2077 「創立百周年を控えて「三宅速遺稿集」刊行さる!」p.65-66
- 9 アインシュタインの旅行日記 アルバート・アインシュタイン/著 草思社 2019.6 289/3/2190
- キーワード
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- アインシュタイン
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000276493