レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年12月11日
- 登録日時
- 2019/12/26 15:28
- 更新日時
- 2020/02/29 10:48
- 管理番号
- 2019-43
- 質問
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解決
河辺村史に書かれている柿本人麻呂の墓、他、古老の言い伝えなどを知りたい。
- 回答
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【資料1】p591~592 第7編民俗 第4章伝説 柿本人麻呂の墓(長崎・日其川境)
長崎部落と日其川部落との間に「ボヤ森」という峠があり、この峠に柿本人麻呂のお墓と言われている石のほこらがあること、壬申の乱で土佐へ流された屋垣王に会いに行こうとしていたこのではないかということ、ボヤ森でも人麻呂公は、疫病の神として祭られていること等が紹介されている。また、この項目の最後には(兼本義春 故山崎宇吉 寿野兼太郎談)とある。
他の資料を調査したが、柿本人麻呂の墓について書かれている資料は河辺村誌以外にはなかった。
旧版(1978年刊)の河辺村誌にも同内容があり、【資料2】貸出可
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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壬申の乱後、676年、土佐に筑紫太宰三位屋垣王が流されたという日本書紀の記録がある。その屋垣王のことを調べたら、河辺村に柿本人麻呂の墓があることを知った。別記の本には、「龍馬脱藩の道の愛媛県側の峠の一隅に、柿本人麻呂の墓があり、土佐の配所にいる屋垣王に逢う為にこの地を訪れ倒れたとの伝承が残る。有吉佐和子の紀行文に、人麻呂が死を迎えたとされる石見の国鴨山の周辺の古老は、人麻呂は土佐で逝去、その墓も土佐にあると語った、一節を私は想記した」とある。インターネットで、河辺村の東端の峠(角ぜん峠か?)に柿本人麻呂の墓がある。屋垣王が壬申の乱で土佐へ流され、歌人の人麻呂が会いに行く途中で、この地へ立ち寄ったのではなかろうか。」と書かれているのを見つけた。有吉さんの紀行文のほうは探したが、該当する本は見つからなかった。屋垣王は文献にはほとんど出ていない。私は、土佐に流されてきた理由を調べているが、思わぬところで謎の多い柿本人麻呂との接点があったのではないかという伝承が出てきた。
情報源・出典:『土佐流刑 流され人考』(安野幸吉/著 牧歌舎)p19
伊予の隅々 こたろう博物館研究所 市町村別 大洲市
http://www.kotaro-iseki.net/sumizumi/13-ozu.html
交流館才谷屋に尋ねてみた。「お墓があるようなので、河辺村史を調べては」とアドバイスあり。
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】「新刊河辺村誌」 河辺村 2005 <当館請求記号:K294.2-シン-2005> ※貸出禁止
- 【資料2】「河辺村誌」河辺村誌編纂運営委員会 1978 <当館請求記号:K294.2-5> 貸出可
- キーワード
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- 柿本人麻呂
- 墓
- 河辺村
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271652