レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年4月27日
- 登録日時
- 2019/05/06 11:25
- 更新日時
- 2019/07/25 12:28
- 管理番号
- 2019-6
- 質問
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解決
明治36年の「日本船名録」(逓信省管船局編)に波止浜船渠株式会社と「伊予国新濱の藤内福次郎」(船渠所有者)が船渠蘭に掲載されている。この2件についての資料の紹介をしてほしい。
- 回答
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「波止浜船渠株式会社」についての資料
【資料1】p161
波止浜湾に近代造船工業が成立したのは明治35年(1902年)の波止浜船渠が最初である。(略)波止浜船渠は、大正13年(1924年)初めて鉄鋼船を手がけ、昭和15年住友傘下に入った。戦後は住友から分かれ、昭和27年来島船渠、昭和41年(1966年)に来島どっくと改称されたが、その波止浜工場が昭和63年(1988年)、現在の新来島どっく波止浜工場となった。
【資料2】p344
波止浜船渠住友傘下へ
波止浜船渠は、明治35年(1902)に木造船の建造と修理のために設立された古い前史をもつ造船所である。大正12年(1923)、苦境に陥ったこの会社を、三津浜の造船業主石崎金久が経営をひきついで立て直しをはかった。昭和5年(1930)には、資本金40万円に増資し、造船のほかに呉海軍工廠の下請工場として各種砲弾の製造を手がけるようになった。これは、波止浜船渠が金属加工の設備をもち、一定の精密加工の技術を有する工場にまで発展してきたことを示している。
しかし、戦時の資材統制がきびしくなる中で、再び波止浜船渠の経営は難しくなり、昭和15年10月、資本金を倍額の80万円に増資し、住友鉱業及び住友機械製作の資本参加を求めて住友資本の傘下に入った。(以下略)
【資料3】p164
第2章 今治市 第3節 工業 3 今治市の造船業
(略)最も古い波止浜船渠(現・来島どっく)は明治35年(1902)に波止浜塩田の一角を埋めたてた所に創業した。昭和5年には旧呉海軍工廠の下請指定工場となり、15年には住友の資本参加をえて拡張し、甲種造船所の指定を受け、戦時標準船D型船の建造を行った。また、越智郡の旧大井村(現在の来島どっく大西工場の場所)に新造船所の建造途中で終戦となり中断した。36年にこれを再開したが、住友資本は現在の地元資本に引継がれて新工場は完成した。一時的にせよ、県外の大手資本が入ったのはこれのみである。
p277
第2章 今治市 第5節 都市・村落 9 波止浜の形成と発展
波止浜の現在の主要産業は造船業であるが、この造船業は波止浜が湊町であったこと、近くに波方・木浦・津島・御手洗などの海運業の基地があったことなどに刺激されて成立する。明治初期にも木造船の修理工場はあったが、この地区の造船業の嚆矢をなすものは、明治35年(1902)に設立された波止浜船渠であり、同工場は大正13年(1924)には鋼船の生産に乗りだす。その他の造船工場は第二次大戦中から設立されたものが多く、当初は木造船の生産に従事していたが、昭和35年以降の造船ブームの間に鋼船の生産に転換する。
【資料4】p575
このように木造の機帆船の建造と修理を主体にしてきた中で、波止浜船渠株式会社(後の来島船渠株式会社、株式会社来島どっく)は異色のコースをたどった。同社は明治35年5月に波止浜財界の手で本格的なドックを持った造船所をという要望で、波止浜町の塩田の一角を埋めたてて創立され、当初は木造帆船を対象にして経営が続けられた。大正12年9月、石崎金久が社長に就任して事業の発展を計画し、それまでの木造帆船相手の営業を翌13年から汽船本位に転向し、機械工業の設備を整え鋼鉄船の建造・修理に着手、着々と成績を挙げていた。(略)
波止浜船渠株式会社は、太平洋戦争終結後の財閥解体のため、昭和20年住友傘下から離脱し、船舶運営会を最大の顧客とし、鋼船の修理を行った。戦後の造船界の統制機関であった船舶運営会は、新造・修理などを、それぞれの会社の能力、内容に応じて割り当てた。これによって同社の経営は、一応の安定を約束された。同21年9月、変電所、本社事務所、貯蔵品倉庫、鉄工場、更衣室を火災で焼失し、造船機能をマヒさせる大被害を受けた。同24年4月、船舶運営会が解散し、統制は崩れた。以後、造船界は自由競争の場で経営を続けることとなった。ついで24年5月、企業再建法により同社は解散、第二会社来島船渠に現物出資し、来島船渠株式会社となり、第七次造船で700GT型船舶を建造した。その24年には、経営状態は悪化し、従業員の給料は遅配となり、同年12月、工場を閉鎖し休業するにいたった。
「藤内福次郎」については、以下の資料に記載がある。
【資料5】p83
合名会社石崎ドック
明治17年藤内福次郎氏の創設したもので本県では最初のドックであると共に唯一のドックであるが、大正3年に石崎金久、石崎喜十郎両氏が譲り受けて資本金五万円の合名会社となし、業務を拡張して今日に及び七百噸級の汽船の建造、修繕の力を有している。最近三豫丸、宇和丸等三津、或は宇和島の浚渫船もこの船渠に於て建造された鉄船である。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『臨海都市圏の生活文化』 愛媛県生涯学習センター 1996 <当館請求記号:K382-39>
- 【資料2】『愛媛県史 社会経済3 商工』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1986 <当館請求記号:K200-31>
- 【資料3】『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1986 <当館請求記号:K200-31>
- 【資料4】『新今治市誌』 今治市誌編さん委員会/編 今治市役所 1974 <当館請求記号:K292.1-6>
- 【資料5】『みつが濱』 三津浜商工会 1923 <当館請求記号:ヤマK21-119>
- キーワード
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- 波止浜船渠
- 藤内福次郎
- 石崎ドック
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000255646