レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年1月23日
- 登録日時
- 2015/01/23 12:01
- 更新日時
- 2015/01/24 09:56
- 管理番号
- 072
- 質問
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解決
(1)江戸時代の村について「村切り」「分村」「相給村」「飛び地」「本郷・枝郷(親村・小村)」など、いろいろな用語があるが、その違いを現尼崎地域での具体例により知りたい。また、(2) 明治の初めに大字レベルの村名が改称される場合があるが、その理由も知りたい。
- 回答
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質問(1)には、村の集落と土地の地理的位置関係をいう場合と村の支配行政関係をいう場合についての用語が混じっていますので、次の三つに分けて説明します。
ア 地理的位置関係をいう用語=「飛び地」「本郷・枝郷(親村・小村)」
○「飛び地」は、一つの村の土地が地続きにはなく、一部が他村の土地に囲まれて所在する場合や海・湖沼などに隔てられて所在する状態を意味します。その飛び離れた土地が耕地だけの場合も、集落を伴う場合もあります。ただし、街区単位の住居表示が実施された結果、現在の尼崎市域では旧大字レベルの飛び地はほとんど解消されています。
〔現尼崎市域の例〕
園田地区の口田中(近世には田中村)の場合は、集落のある地区と御園の土地を隔てて北方に耕地だけの飛び地がありました。
武庫地区の西昆陽の場合は、中世以来、武庫川西岸の田近野が飛び地としてありましたが、1969年(昭和44)に武庫川河口の平左衛門新田との交換で西宮市に編入されました。
武庫地区の時友の場合は、友行の土地を隔てて南方に集落と耕地の小村・枝郷(辰巳町)がありました。この場合も土地の状態としては「飛び地」です。
○「本郷・枝郷(親村・小村)」は、対外的に村を代表する集落が本郷・親村、支配行政上で本郷・親村に従属しているのが枝郷(枝村)・小村です。年貢の賦課徴収では検地帳・年貢免定は親村の名義で、小村の年貢納入は親村を通してしかできませんでした。小村から領主への嘆願なども親村の合意が必要でした。
〔現尼崎市域の例〕
立花地区では水堂村の小路、大庄地区では今北村の芋が小村です。
イ 支配行政関係をいう用語=「村切り」「相給村」
○「村切り」:「庄」という中世の広い行政単位のなかに、生活の単位である複数の「村」が次第に生まれてゆき、その「村」が支配・徴税の単位である独立の行政村とされることを「村切り」と称しています。16世紀末に実施された太閤検地によって多くの村々は行政村とされましたが、現実の村々では中世的な出入作や生活が残り、行政村は農民の生活とまだ遊離した状態にもありました。尼崎地域では、その様な中世的なあり方が制度的に「村切り」されるのは領主の替わり目のことでした。
〔現尼崎市域の例〕
立花地区の生島村は、1616年(元和2)の記録では1,800石余の大きな村でしたが、1635年(寛永12)の青山氏入部の時に上之島・栗山・大西・三反田の4か村に村切りされました。
小田地区の長洲村は、1616年(元和2)の記録では二人の領主が1,050石余と1,500石近くを支配する一つの村でしたが、1635年(寛永12)の青山氏入部の時に東長洲・中長洲・西長洲・大物の4か村に村切りされました。
○「相給村」は、一つの村の支配が二人以上の領主に分かれている状況をさします。幕府直領と尼崎藩領の場合や尼崎藩領と旗本知行所の場合、複数の旗本知行所に分かれている場合など、いずれも「相給」状態です。
〔現尼崎市域の例〕
立花地区の水堂村では、村の大部は1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領、1643年(寛永20)尼崎藩より分知された旗本青山氏(幸通系)の知行所、小部ははじめ幕府領または大坂城代領、1694年(元禄7)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地となり、1823年(文政6)幕府領、1828年尼崎藩領となり、江戸時代を通じて相給状態が続きました。
ウ ア・イどちらの意味でも用いられる用語=「分村」
「分村」は次の1、2,3のとおり基本的には集落が地理的に二つ以上に分かれること及び分かれている状態を意味していますが、いずれも集落と耕地がセットで分離しています。また、分離した村々が行政的に独立の村として認められることを意味する場合もあります。
1 本村から分離した村。
2 村の多くの人が集団でよその土地に移住し、新しく村をつくること。また、その村。
3 一つの村が二つ以上に分かれること。また、分けること。
〔現尼崎市域の例〕
慶長年間(1596~1615)以前に上坂部村地内に開発された森村が、1608年(慶長13)村として成立、1685年(貞享2)ころ行政上も独立した例が、この場合にあたります。
質問(2)について、一例は次の口田中・南清水のように同じ川辺郡のうちに同名の村があった場合です。江戸時代は同じ郡内に同名の村があっても、多くの異なる領主の支配地に分かれている場合は混乱も生じませんでした。しかし、明治になって新政府のもとで兵庫県に統一されると、同一郡同一村名では不都合が生じ、一方が改称されることになりました。
〔現尼崎市域の例〕
園田地区の口田中は、1873年(明治6)に田中から改称。川辺郡内のもう一つの田中は現三田市域にありました。江戸時代の支配関係は、現三田市域の田中がほぼ全期を通して麻田藩領であり、現尼崎市域の田中(明治6年以降の口田中)は幕府領もしくは主として大坂城代領・京都所司代領でした。
園田地区の南清水は、1873年(明治6)に清水から改称。川辺郡内のもう一つの清水は現猪名川町域にありました。江戸時代の支配関係は、現猪名川町域の清水がほぼ全期を通して高槻藩領または高槻藩預り地であり、現尼崎市域の清水(明治6年以降の南清水)は、幕府領もしくは主として大坂城代領・京都所司代領でした。
村名改称の別の例は、村が合併した場合です。1881年(明治14)万多羅寺村と岡院村が合併して御園村に、同年東長洲村と中長洲村が合併して長洲村と改称されています。
- 回答プロセス
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1 現尼崎市域の大字名(近世村の村名)変遷、近世領主の変遷・入組支配について調べることのできる文献
◆『尼崎地域史事典』 /Web版尼崎地域史事典"apedia"
◆『角川日本地名大辞典』28 兵庫県
◆平凡社『日本歴史地名大系』第29巻1・2 兵庫県の地名
2 現尼崎市域の地名研究に関する参考文献
◆『尼崎の地名』
3 現尼崎市域の「村切り」「分村」「合併」の経緯について記した文献
◆『尼崎市史』第2巻・第3巻
4 『尼崎市史』第2巻・第3巻の記述のもととなった史料を掲載している文献
◆『尼崎市史』第6巻・第7巻
- 事前調査事項
- NDC
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- 農業史.事情 (612 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
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- 『尼崎地域史事典』尼崎市 平成8年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
- 『角川日本地名大辞典』28 兵庫県 角川書店 昭和63年発行 (当館請求記号 290/H/カ)
- 『日本歴史地名大系』第29巻1・2 兵庫県の地名 平凡社 平成11年発行 (当館請求記号 290/H/ニ-29-1・2)
- 『尼崎の地名』尼崎市立地域研究史料館 昭和60年発行 (当館請求記号 290/A/ア)
- 『尼崎市史』第2巻・第3巻・第5巻・第6巻・第7巻 昭和43年・45年・49年・52年・51年発行 (当館請求記号 219/A/ア-2・3・5・6・7)
- キーワード
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- 村切り
- 分村
- 相給
- 飛び地
- 枝村
- 大字
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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Web版尼崎地域史事典"apedia"
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 言葉
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000166660