レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年11月12日
- 登録日時
- 2021/11/16 11:47
- 更新日時
- 2021/11/24 21:26
- 管理番号
- 県立長野-21-172
- 質問
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飯山藩松平氏に仕えた梶川氏について知りたい。
- 回答
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当館所蔵の資料を調査したが、梶川吉兵衛、梶川作右衛門、梶川伊左衛門、および梶川吉蔵(勝澄)の記載を確認することはできなかった。
松平氏が飯山藩の藩主を務めたのは、松平忠倶(ただとも)が寛永十六年(1639年)に封入してから宝永三年(1706年)までの六十八年間。松平忠喬の代で、宝永3年(1706年)遠江掛川に移封。続く宝永8年(1711年)、摂津尼崎に移封となっている。
松平忠倶が藩主であった頃、新田開発と用水開削をしており、この堰開削に尽力した野田喜左衛門についての研究書が『飯山藩普請奉行 野田喜左衛門』松橋紘一著 ほおずき書籍 2009 【N289/ノダキ】になる。この資料中に「宝永三丙戊歳松平遠江守様御家中名附」(飯山市 村上政之家文書)の翻刻(p.88-90)があった。p.88の郡奉行に3名の名前があり、うち一人が「梶川五郎(兵衛)」となっていた。
また、「信州水内(みのち)郡常盤庄飯山御家中之侍衆覚書」(飯山市 久保田家文書)の翻刻(p.94-96)のp.94には、「梶川五左衛門」がみられる。
同じく、「□□家中分限帳大概」(岡本静心所蔵 内田頼重文書 『尼崎市史』)の翻刻(p.90-94)に、高百三十石で「梶川九郎兵衛」がみられた。この元となった史料には家歴も掲載されているようだったので、『尼崎市史 第5巻』渡辺久雄編 尼崎市役所 1974 【216/27/5】で確認したところ、p.246-294に「尼崎藩松平家中分限帳大概」(岡本静心所蔵 内田頼重文書)があり、梶川九郎兵衛は、p.265に記載があった。家暦として、
「高百五拾石 梶川九郎兵衛
忠倶公御代父五右衛門百五拾石ニて被召出御使番より
物頭被仰付、惣領籐左衛門大小性被召出候所ニ病死ニ
付次男当九郎兵衛被 召出御中小性相務、父老衰隠居家
督無相違被下之御使番より物頭被 仰付之候所、病死家
督当九郎兵衛壬(閏)六月十八日無相違被下之、享保十八丑
八月廿三日御使番被 仰付之」
との記述がある。この史料は享保18年(1732年)以降に記された可能性がある。『尼崎市史 第5巻』は、NDLデジタルコレクション図書館送信参加館内公開として閲覧することができる。(138コマ- )【最終確認2021.11.22】
「飯山城下町絵図」『精選 長野県古地図集 第3集』 長野県古地図刊行会編 昭和礼文社 1985 【N293/24/3-2】に、「元禄・宝永頃 飯山城下町絵図」(飯山市立飯山小学校蔵)の複製図があるが、明らかに「梶川」と判読できる屋敷割の記名は確認できなかった。原史料がもともと判読しにくいもののため、この複製図そのものも、はっきりしない箇所があり、見落としがあるかもしれない。また、この絵図の解説に作成時期の情報として、家中の氏名が『宝永三丙戊松平遠江守様御家中名附』(村上政之氏所蔵)とほとんど一致しているという記述があった。
『精選 長野県古地図集 第3集』は、国立国会図書館東京館 地図室でも所蔵している。
なお、飯山藩では、家中名請といって、家中の武士の名が百姓並みの年貢を納める名請人として登録されていたことがあり、これについて次の論文があった。
・外谷俊男著 「近世初期飯山藩における家中名請」『高井』第63号 p.1-19
p.9-17 「飯山藩内各村と飯山町の家中名請地の所持高一覧表」中に「梶川五右エ門」がみられる。
尼崎藩での「尼崎藩松平家中分限帳大概」に記載のある「梶川九郎兵衛」と飯山藩内に残ったと思われる「梶川吉兵衛」「梶川作右衛門」「梶川伊左衛門」および「梶川吉蔵(勝澄)」との関係がわかる資料は確認できなかった。
また、時代、内容など詳細は目録からは不明だが、長野県立歴史館が次の史料を所蔵していたので紹介した。直接問い合わせるよう案内した。
・「分限帳(上) 飯山藩家中」 行政文書 飯山藩 [明治以前/1E/1-1]
・「分限帳(中) 飯山藩家中」 行政文書 飯山藩 [明治以前/1E/1-2]
・「飯山藩管内の図」 丸山清俊資料 古文書之部 [0-6/211/34]
・「御目見順分限帳(弘化年間 飯山藩本多氏分限帳)」 望月静雄 2017 [241/オ]
長野県立歴史館文献史料課
〒387-0007
長野県千曲市大字屋代260-6(科野の里歴史公園内)
電話番号 (代表)026-274-2000 FAX 026-274-3996
- 回答プロセス
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1 『長野県歴史人物大事典』『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県姓氏歴史人物大辞典』などを見ていくが、当該人物は確認できなかった。
2 飯山藩の松平氏について『飯山史誌』で確認する。寛永16年(1689年)松平忠倶から、宝永3年(1706年)の忠喬までの期間。梶川氏についても調べるが、記載はない。
3 『長野県史 近世史料編 第7巻(1)北信地方』の「領知」で分限帳を見ていく。梶川姓の人物は確認できない。
4 松平氏の治世で、新田開発と用水開削が大きな事業だったことがわかったり、野田喜左衛門が事業の中心事物だったことがわかる。『飯山藩普請奉行 野田喜左衛門』の資料中に、「宝永三丙戊歳松平遠江守様御家中名附」(飯山市 村上政之家文書)の翻刻(p.88-90)があった。p.88の郡奉行に3名の名前があり、うち一人が「梶川五郎(兵衛)」となっていた。その他にも、2つの家中の名簿となるものが掲載されていた。
5 「□□家中分限帳大概」(岡本静心所蔵 内田頼重文書 『尼崎市史』)の翻刻(p.90-94)に、「梶川九郎兵衛」あった。この元となった史料には家歴も掲載されているようだったので、『尼崎市史 第5巻』で確認したところ、p.246-294に「尼崎藩松平家中分限帳大概」(岡本静心所蔵 内田頼重文書)があり、梶川九郎兵衛は、p.265に記載があった。
6 『尼崎市史』について、NDLデジタルコレクションでの公開を確認する。
7 飯山藩の城下の屋敷割図を探す。『精選 長野県古地図集 第3集』にあったので確認するが、梶川某の名前は見られなかった。だたし、この複製図の文字がはっきりしていない部分もあるので、見落としがあるかもしれない。
8 長野県立歴史館の所蔵資料を検索する。家中分限帳があったので、紹介することとした。
<調査資料>
・『長野県歴史人物大事典』 赤羽篤ほか著 郷土出版社 1989 【N283/13】
・『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県姓氏歴史人物大辞典』 角川書店 1996 【N288/158】
・『長野県姓氏歴史人物大辞典』
長野県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 角川書店 1996 【N288/158】
・『長野県史 近世史料編 第7巻(1)北信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1981 【N209/11/7-1】
「飯山領」 領知 戸口
・『長野県史 近世史料編 第8巻(1)北信地方』長野県編 長野県史刊行会 1975 【N209/11/8-1】
「飯山領」 領知 戸口 p.52-64 「嘉永元年本多助実家中分限録」
・『飯山町誌』 飯山市公民館編・刊 1955 【N211/10】
・『飯山市誌 歴史編上』 飯山市誌編纂専門委員会編 飯山市誌編纂委員会 1993 【N211/48/2-1】
・『新編 姓氏家系辞書』 太田亮著 丹羽基二編 秋田書店 1976 【288/93】 p.360 梶川氏
・土屋一郎著 「松平氏飯山藩の元禄十六年触書」 『高井』第192号 2015 p.41-50
・岩戸貞彦著 「近世初期飯山藩における用水堰路の開さく」『信濃 第3次』 第23巻第6号 1971 p.27-40
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 10版)
- 中部地方 (215 10版)
- 参考資料
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松橋 紘一/著 , 松橋 紘一. 野田喜左衛門 : 飯山藩普請奉行. ほおずき書籍, 2009-01.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059153041-00 (【N289/ノダキ】) -
渡辺 久雄/編集 , 渡辺‖久雄. 尼崎市史 第5巻. 尼崎市役所, 1974.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005595782-00 (【216/27/5】) -
長野県古地図刊行会/編 , 長野県古地図刊行会 , 長野県古地図刊行会. 精選長野県古地図集 第3集(2). 昭和礼文社.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059051192-00 (「飯山城下町絵図」【N293/24/3-2】)
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松橋 紘一/著 , 松橋 紘一. 野田喜左衛門 : 飯山藩普請奉行. ほおずき書籍, 2009-01.
- キーワード
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- 梶川氏
- 飯山藩
- 松平忠倶
- 分限帳
- 家中名請
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000307668