レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年7月19日
- 登録日時
- 2018/08/09 15:53
- 更新日時
- 2019/01/13 15:48
- 管理番号
- 20889
- 質問
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桜田門外の変の現場に高松藩の松平頼聰(よりとし)がいたことが書かれている資料は何か。
- 回答
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次の資料に掲載あり。
・「明治 大正 昭和 香川県民血涙史」(K2100 S15)
p.19「高松藩の悲劇から”夜明け”」に次の記述あり。
「・・・この現場を目撃してふるえあがった二人の讃岐人があった。一人は事件発生現場の茶店のおやじで丸亀出身の男であった。
他の一人は殺された直弼の娘ムコで、この日いっしょに登城する途中の讃岐高松十二万石の若殿、松平頼聰(よりとし)であった。この行列にカゴが二つあった。さきは直弼、少し 離れた後ろには頼聰であった。直弼を殺した浪士は血刀をさげてうしろのカゴに殺到した。カゴの戸を引きちぎって中を覗き込むと「なあんだ。万之助か」といい捨てて走り去った。 万之助とは頼聰の幼名である。・・・」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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次の情報をインターネットで見た、とのこと。
・桜田門外の変の場にいたという高松藩世子(ビジネス香川)
http://www.bk-web.jp/2018/0702/talk.php (最終確認:2018/8/9)
「高松には、桜田門外の変にまつわる興味深い話が伝わっているといいます。それは、事件当日、頼聰の乗った駕籠が舅の直弼の行列の後ろに続き、水戸浪士たちは直弼を暗殺、次いで頼聰の駕籠に襲いかかったが、頼聰の顔を見て「なんだ、万之助(頼聰の幼名)か・・・」と言ってその場を去って行った、というもの。史実ではないと思いますが、高松藩の置かれた苦しい立場を言い得て妙です。」
- NDC
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- 四国地方 (218)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000240349