レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年08月02日
- 登録日時
- 2020/12/18 09:58
- 更新日時
- 2021/03/11 16:52
- 管理番号
- 新県図-01446
- 質問
-
解決
内藤民治の経歴・事績・人物像について
- 回答
-
当館所蔵の人物・人名事典及び内藤民治に関する評伝・交遊録・回顧録等を中心に調査したところ、下記(1)~(6)の資料に内藤民治の経歴・事績等に関する記述が、下記(7)~(11)の資料に内藤民治の思想や人物像を語る逸話等に関する記述が見つかりました。
また、当館所蔵の新潟日報マイクロフィルム1965(昭和40)年7月15日~7月20日付分を通覧しましたが、内藤民治の訃報記事は見つかりませんでした。
なお、当館所蔵資料ではありませんが、当該期間発行の「三條新聞」(三条 三條新聞社)を三条市立図書館( http://www.city.sanjo.niigata.jp/library/ )で所蔵しています。参考までに申し添えます。
(1)『新潟県県民百科事典』(野島出版編集部/編 野島出版 1977)
p699「ないとう たみじ 内藤民治 1885-1965」(五十嵐稔)の項に、「三条市大字袋(旧本成寺村)の農家に生まれる。1906年(明治39)渡米,プリンストン大学に学ぶ。…」、「晩年は三条へ帰郷,80歳死去」と記述があります。また、項内に内藤の肖像写真が掲載されています。
(2)『近現代日本人物史料情報辞典』1(伊藤隆/編 季武嘉也/編 吉川弘文館 2007)
p288~289「内藤民治(ないとう たみじ)」(浅野豊美)の項に、生没年、人物紹介、関連史料及びその所在に関する情報、交際のあった主な人物、下記(7)の資料を含む内藤が登場する作品等について書かれています。また、p289に内藤の娘、黎が佐竹五三九と結婚し、佐竹大心を生んだ旨の記述があります。
(3)「人名辞書類にのっていない「郷土の人物」について」
(調査相談室/文責 『にいがた(新潟県立新潟図書館報)』1号 新潟県立新潟図書館/編 新潟県立新潟図書館 1976年3月 p8~9)
「内藤民治(ないとう たみじ)」の項に、生没年、出生地、事績、略歴に関する比較的まとまった記述があります。なお、項末に「『日本近代文学大事典』<講談社>の項目執筆者渡辺澄子氏提供資料、その他による」と付しています。
(4)『日本近代文学大事典』第2巻 人名(こ~な)8(日本近代文学館/編 講談社 1977)
p468「内藤民治(ないとう たみじ)」(渡辺澄子)
(5)『越佐書画名鑑』第2版(荒木常能/編 新潟県美術商組合 2002)
「三条市(書)」内p234「内藤民治(ないとう たみじ)」
(6)『県央の人物』(西方藤七/編著 三条 野島出版 1989)
p282「内藤民治(ないとうたみじ)」
(7)『徳川夢声の世界』(三国一朗/著 青蛙房 1979)
p69~97「第三章 「N」という男」に、女優・井澤蘭奢(三浦シゲ)を中心とする、内藤民治と交流のあった人物による証言を引用しつつ、内藤の人となりを語る逸話が書かれています。
p71に内藤の肖像写真が、p95に「蘭奢の遺影を掲げた書斎の「N」、と付して、民治の写真が掲載されています。
(8)『「大漢和辞典」を読む』(紀田順一郎/編 大修館書店 1986)
「第2部 『大漢和辞典』を読む」内p79~91「人名と『大漢和』」(三國一郎)に、「黎(れい)」という漢字をめぐり、内藤民治の娘「佐竹黎(さたけれい)」の協力を得て、上記(7)の評伝『徳川夢声の世界』を著した経緯について書かれています。
(9)『弔詩なき終焉』(荻野正博/著 御茶の水書房 1983)
p119~121「一人の使者」及びp228~230「『赤旗の靡くところ』出版」に、内藤民治と田口運蔵の交流について書かれています。
p229に「小笹アサノの話によると、運蔵といちばん気のあった友人は内藤民治であったという。山崎今朝弥また、内藤を「田口君の相棒」とよんでいる。その内藤が運蔵救援の回状を処方に出し、それを知った運蔵が反発し、謝絶の手紙を出すという事態がおこったのもこの頃であった。…」と記述があります。
(10)『本の散歩・文学史の森』(紅野敏郎/著 冬樹社 1979)
p289~292「谷崎純一郎と上山草人 『素顔のハリウッド』」内に、上山草人と内藤民治の交流について書かれています。
p291~292に、「…、そしてまた大正中期の総合雑誌として著名な「中外」の主幹内藤民治も、この時期の草人について知るところ深かったのである。…失意の彼を激励し、彼に洋行費を給した者は実に内藤氏ではなかつたか」と潤一郎も書いている。…」と記述があります。
(11)『環日本海地域社会の変容』(芳井研一/著 青木書店 2000)
「第6章 大正デモクラシー期の環日本海論」内p141~147「第1節 総合雑誌『中外』の創刊と日ソ国交回復運動」に、内藤民治と堤清六を中心に新潟県出身者の人脈が日ソ国交回復に果たした役割や、『中外』創刊の経緯等に関する記述があります。
p143に「…このように内藤は、環日本海の諸国がお互いに対立するのではなく日本海をはさんで平和に交流しなくてはならないとする観点にたって、日本が帝国主義的な政策を放棄し、国民同士が対等な人間関係において交流できるようにしなければならないと考えた。そのため障害になっている現実の問題に対して、懸命に処方箋を書き綴ったのである。…」と記述があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 内藤民治
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000290908