レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年12月03日
- 登録日時
- 2011/01/20 12:14
- 更新日時
- 2011/01/20 12:14
- 管理番号
- 9000006961
- 質問
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解決
徳川家康が、松平姓から徳川姓に変えたのはなぜか。
- 回答
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家康は、永禄9(1566)年12月19日勅許を得て「松平」から「徳川」に改姓し、従五位下三河守に叙任された。各種史料では先祖が名乗っていた徳川姓にもどった(復姓)としているが、のちに姓を源氏とした家康は徳川改姓の際には藤原氏を称しており、叙位任官されやすい藤原姓徳川氏としたものと思われる。
- 回答プロセス
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1.事典類を調査
・『日本人名大事典』第4巻(平凡社 1979年)の「徳川家康」の項には「元亀元年家康は引間に徒り、これを浜松と改称した。これより先、家康は元康を改めて家康と称したが、ここに至り、勅許によりて旧姓徳川氏に復した」と記述がある。
・『徳川幕府事典』(竹内誠編 東京堂出版 2003年)「徳川家康」の項には「松平元康から徳川家康に」の項があり、「…家康は「源元康」を自称するほど源氏志向ではであったが、徳川は清和源氏系の得川をもじったものである」との記述がある。
・『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編 第4巻(ほるぷ出版 1978年)、国史大辞典』第10巻(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989年)、『日本史大事典』第5巻(平凡社 1993年)には、改姓についての記述はあるがその理由に関する記述はみあたらない。
2.徳川家康の伝記類を調査
・『徳川家康(ちくま新書)』(二木謙一著 筑摩書房 1998年)p40-46には「徳川改姓と従五位下三河守叙任」の項があり、「国主大名となった宗家松平が、一族の上に立つことを明示するために徳川と改めて他の松平諸家とは区別したもので、叙任は三河国主としての肩書きと、社会的な公認を必要としたからであろう」、また、「藤原姓を称したのは、叙任されやすい藤原氏に目をつけてのことで…」などと考察している。
・『詳細図説家康記』(小和田哲男著 新人物往来社 2010年)p31には、「各種史料には「復姓」とみえ、先祖が名乗っていた徳川姓にもどるという体裁をとってはいるが、これが系図詐称であることは明らかである」との記述があり、p178「なぜ徳川を名乗ったか」の項には、「…松平という苗字のままでは叙位任官ができないということがわかってきた。当時の習慣として、源氏か平氏か藤原氏か橘氏といったいわゆる「天下の四姓」につながらなければ叙位任官がかなわなかったのである。」「そこで、はじめ家康は、先祖が称していたという源姓新田一族の徳川氏に結びつけようとして申請したが、間に入った近衛前久の意向で、藤原姓徳川氏となった。のち、源平交代思想を意識し、改めて源姓徳川氏に鞍がえをしている」などの記述がある。
3.雑誌記事では次のものに関連の記述があった。
・「歴史読本」昭和60年6月号(新人物往来社 1985年6月)収載「なぜ出自を何度も変えたのか」(藤本正行著) ※参考文献の掲載あり
・「歴史読本」2006年1月号(新人物往来社 2006年1月)収載「徳川家と松平家」(佐々悦久著)
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『日本人名大事典』第4巻(平凡社 1979年) (p402)
- 『徳川家康(ちくま新書)』(二木謙一著 筑摩書房 1998年) (p40-46)
- 『詳細図説家康記』(小和田哲男著 新人物往来社 2010年) (p31)
- 「歴史読本」昭和60年6月号(新人物往来社 1985年6月) (p50-56)
- 「歴史読本」2006年1月号(新人物往来社 2006年1月) (p46-48)
- キーワード
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- 徳川家康
- 伝記
- 姓
- 名前
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 伝記・人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000076949