レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年09月14日
- 登録日時
- 2012/01/22 13:38
- 更新日時
- 2012/06/05 11:28
- 管理番号
- 埼熊-2011-136
- 質問
-
解決
秀吉に滅ぼされた名胡桃城と城主吉田和泉守について書かれている資料を探している。
- 回答
-
1 名胡桃城について以下の資料に記述があり、紹介した。
『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』
p323-324「名胡桃城」の項あり。関係主要文献に『加沢記』『上州治乱記』『関八州古戦録』あり。
『国史叢書 24 上州治乱記(全)』
p148「天性猪股は、夷中武士にて、主よりほか恐ろしき者なしと、頑に覚えたる荒夷の不敵者なり。(中略)奈久留美を取りしかば、沼田悉く、北条が知行となる。」とあり。
『史籍集覧 19 家部 戦記編』
「関八州古戦録」収録。
p291-292に猪俣が沼田の城を攻めたとの記述あり。〈名胡桃〉の名前はなし。
『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』
p79、p118に〈名胡桃城〉についての記述あり。
『上州の名城と伝説 決定版 上州路 別冊』
p57「名胡桃城 鈴木主水の悲劇」の項あり。
『上州路 〔1〕 史跡篇』
p324-326「名胡桃城址(月夜野町)」の節あり。
『群馬県古城塁址の研究 下』
p277-279「名胡桃城」の節あり。
『沼田城略史』
p11「ところが北条の沼田城代猪俣は不法にも11月、真田の所領名胡桃城を掠奪した。真田の訴えを聞いて怒った秀吉は「北条の不信行為許し難い」を口実に、翌18年(1590年)4月北条討伐を開始。」とあり。
『上毛大観』
p340-341「名ぐるみ城阯」の項あり。(p68に関連記述あり。)
『群馬県史 通史編 3 中世』(群馬県史編さん委員会編 群馬県 1989)
p714-「名胡桃城を奪う」の項あり。名胡桃城の侵略をめぐっての経緯について記述あり。
「図95 名胡桃城跡図(山崎一氏作図)」あり。
2 吉田和泉守について、以下の資料に関連記述があったが、吉田和泉守が名胡桃城の城主であったとの記述は見つからなかった。
『本庄市史 通史編 2』
p83〈吉田和泉守政重〉の項に、以下の記述あり。
「児玉郡小島郷(本庄市小島)に三百貫文と榛沢郡上用土の内六貫文の知行を与えられた。」
「黛城は、現上里町の金久保城のことと推定されるが、政重が黛城主であったのかは明らかではない。あるいは、息子の実重が黛郷を宛行われたので、そのように書かれたことも考えられる。」
p85〈吉田新左衛門実重〉の項に、以下の記述あり。
「天正一六年頃になると、上州の全支配をめざしていた後北条氏は、真田領の名胡桃城の奪取を計画していたようである。同年五月七日には、猪俣邦憲が吉田実重に名胡桃城に近い上野権現山城に在城を申し付ける代わりとして、黛郷一五拾貫文分が与えられた。」
『三百藩家臣人名事典 3』
p138〈吉田柳介(よしだりゅうすけ)〉の項の中に、「36代吉田和泉守政重(武州黛城主)は、天文8年上杉憲政が北条氏康に敗れた後、氏康の家臣となって1500貫を領した。」とあり。
『新編埼玉県史 資料編 6(中世2) 古文書』
p703-704「1431 猪俣邦憲判物写(「諸州古文書」12武州所収)」あり。
この文書と次の文書の解説(p703)に次のようにあり。「北条氏邦家臣猪俣邦憲、吉田真重に判物を発給し、賀美郡黛之郷百五十貫文を安堵す。(後略)この日、また邦憲、吉田真重に判物を発給し、父の政重の旧領小嶋郷を安堵し、その着到を十人と定む。」
1431の文書中に「一 名胡桃(上野)三百貫之所出置候、本意次第可知行事」とあり。
また、p704には「1432 猪俣邦憲判物写(「諸州古文書」12武州所収)」あり。
巻末の索引(宛所に〈吉田和泉守〉あり、宛先が〈吉田和泉守〉の文書は、他にも収録されている。
- 回答プロセス
-
吉田氏と名胡桃城について調査
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編纂 角川書店 1988)
p700-701〈なぐるみ 名胡桃〉の項あり。「中世」の部分、天正16年5月7日の吉田新左衛門尉宛猪俣邦憲判物写で「当地(名胡桃)の300貫を「本意次第」に知行するように命じている」内容の文書が『埼玉県史 資料編 6』に掲載されていることがわかる。
p701-702〈なぐるみじょう 名胡桃城〉の項あり。城主の記述もあるが、吉田氏の名はない。
小田原合戦の発端を調査
『小田原市史 通史編 原始・古代・中世』(小田原市編 小田原市 1998)
p892「名胡桃城奪取事件」の項あり。記述に対応する『史料編』収録の史料番号あり。
『小田原市史 史料編 原始・古代・中世 1』(小田原市編 小田原市 1995)
p815「730 『家忠日記』天正十七年(1589)十一月三日条」:北条氏、が上野名胡桃城を攻略する。ここでは「信州真田城 上野名胡桃城(群馬県月夜野町)を指す」とあり。
p817「732 豊臣秀吉朱印状(折紙)(長野県長野市 真田宝物館所蔵 真田文書)」(秀吉、真田昌幸に、北条氏討伐の決意を述べ、境目の警戒を厳にさせる。)に「なくるみの城」の記述あり。
『新編埼玉県史 通史編 2 中世』(埼玉県編 埼玉県 1988)
p700-「後北条氏の滅亡と武蔵」中に「天正十七年(1589)十月末、上野沼田城将(群馬県沼田市)猪俣邦憲(北条氏邦重臣)が突如対岸にある真田氏の名胡桃城(群馬県月夜野町)を奪った。(後略)」とあり。関連する史料番号(『史料編』に対応)もあり。
吉田和泉守について調査
『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ-ん』(日外アソシエーツ編集部編 日外アソシエーツ 2008)
p2766〈吉田政重【よしだまさしげ】〉の項、「安土桃山時代・江戸時代前期の武士」とあり。
文献に『埼玉人物事典』『高知県人名事典(新版)』あり。
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
p841〈よしだまさしげ(吉田政重)〉の項あり。
「生没年不詳 戦国時代後期の武士。鉢形(寄居町)城主北条氏邦の家臣。本拠は児玉郡小島郷(本庄市)という。和泉守。」とあり。
以下の2冊の人物は、同名で同時代であるが、安芸の国で生まれ、長宗我部氏に仕えた人物のようである。『埼玉人物事典』の〈吉田政重〉と同一人物であるかは不明。
『高知県人名事典』(『高知県人名事典 新版』刊行委員会編 高知新聞社 1999)
p912〈よしだまさしげ(吉田政重)〉の項あり。安芸の国で生まれ、長宗我部氏に仕えた人物。
『戦国大名家臣団事典 西国編』(山本大編 小和田哲男編 新人物往来社 1981)
p230〈吉田政重(よしだまさしげ)〉の項あり。安芸の国で生まれ、長宗我部氏に仕えた人物。
インターネット情報
《東京大学史料編纂所 大日本史料総合データベース》を〈吉田和泉守〉で検索する。
『大日本史料 11-5 正親町天皇』(東京大学史料編纂所編纂 東京大学出版会 1988)
p726「北条氏直、吉田和泉守ノ上野ニ於ケル戦功ヲ褒スルコト」とあり、宮古島衆と倉賀野衆と戦った際の、感状の記述あり。
その他調査済み資料
『上州の城 下』(上毛新聞社 1975)
『資料・上州人 みやま文庫 54』(萩原進編 みやま文庫 1974)
『群馬人国記 利根・沼田・吾妻の巻』(岸大洞〔ほか〕共著 歴史図書社 1979)
- 事前調査事項
-
「本庄市史 通史編 2」p119 「埼玉叢書 2」「秩父吉田家家系図」に吉田和泉守の名あり。
- NDC
-
- 関東地方 (213 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
-
- 『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』(平井聖〔ほか〕編修 新人物往来社 1979)
- 『国史叢書 24 上州治乱記(全)』(黒川真道編 国史研究会 1915)
- 『史籍集覧 19 家部 戦記編』(近藤瓶城原編 角田文衛 来重編 臨川書店 1967)
- 『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』(平凡社 1987)
- 『上州の名城と伝説 決定版 上州路 別冊』(あさを社 1992)
- 『上州路 〔1〕 史跡篇』(萩原進著 上毛新聞社 1975)
- 『群馬県古城塁址の研究 下』(山崎一著 群馬県文化事 業振興会 1972)
- 『沼田城略史』(沼田市編 沼田市役所 1970)
- 『上毛大観』(群馬県編 歴史図書社 1974)
- 『群馬県史 通史編 3 中世』(群馬県史編さん委員会編 群馬県 1989)
- 『本庄市史 通史編 2』(本庄市史編集室編 本庄市 1989)
- 『三百藩家臣人名事典 3 茨城県(2) 千葉県 埼玉県 神奈川県 富山県 石川県 福井県 長野県 山梨県 岐阜県』(家臣人名事典編纂委員会編 新人物往来社 1988)
- 『新編埼玉県史 資料編 6(中世2) 古文書』(埼玉県編 埼玉県 1980)
- キーワード
-
- 名胡桃城(ナグルミジョウ)
- 吉田 政重(ヨシダ マサシゲ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000100471