レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/08/10
- 登録日時
- 2007/12/01 02:11
- 更新日時
- 2007/12/28 13:00
- 管理番号
- 埼熊-2007-045
- 質問
-
解決
酒田湊の豪商「加賀屋 二木与助」について次の事柄を調べてほしい。二木家は幕末から明治維新の頃に教育に熱心であったが「学校」を設立しているか、その場合現在でも存続しているのか教えてほしい。
- 回答
-
「新編庄内人名辞典」(1986:山形県図所蔵)より、二木与助の養子である二木栄松が、明治6年(1873)酒田で最初の女子小学校「操松学校」創設の際、自宅を校舎に開放。女子教育者小川宮子が運営にあたり、栄松は船場町に開設された漸進学校の教師となった旨の記述あり。
操松学校は明治12年廃校。
関係資料は次のとおり。
①「新編庄内人名辞典」(1986;山形県図所蔵)の「二木栄松(ふたきえいしょう 1853-1888)」の項
②「山形県教育史資料 統計篇 1」(山形県図所蔵)の「学事年報」の項
明治9年の年報に〈操松学校〉明治8年設立、民家借用とあり、明治11年まで情報があるが、明治12年からの年報には記載なし。
③「山形県教育史 通史編1」(山形県図所蔵)には明治6年までは庄内地方には1校も開校なしと記述がある。
資料①②で創立年に相違があるが、当時酒田県では領府された学制は翌年3月までは県民に知らされずと記述あり。
- 回答プロセス
-
『山形県史 4』p143-144「諸学校の新しい動き」の項に、酒田民政局が設けた学而館(郷学校)の記述があるが、二木家との関連なし。
《Google》を検索。二木与助の養子二木栄松(1853-1888)が、明治6年(1873)酒田ではじめての女子小学校〈操松学校〉創設の際、自宅を校舎に開放した(典拠資料「庄内人名辞典」)との記述が見つかった。
また〈小川宮子〉関係のWebサイトに操松学校は明治12年廃校とあるが、資料による確認ができず。
山形県立図書館に問い合わせを行い、回答の資料情報を得た。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 個人伝記 (289 9版)
- 教育史.事情 (372 9版)
- 商業史.事情 (672 9版)
- 参考資料
-
- 「新編庄内人名辞典」(1986:山形県図蔵)
- 「山形県教育史資料 統計篇1」(山形県図蔵)
- 「山形県教育史 通史編 1」(山形県図蔵)
- キーワード
-
- 二木 与助(フタキ ヨスケ)
- 二木 栄松(フタキ エイショウ)
- 酒田-山形県-歴史
- 商人
- 小学校-教育史
- 照会先
-
- 山形県立図書館
- 寄与者
-
- 山形県立図書館
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000039884