レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/11/01
- 登録日時
- 2012/01/13 02:00
- 更新日時
- 2012/01/13 02:00
- 管理番号
- 1000000432
- 質問
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解決
「備瀬知恒」および「備瀬知範」の関係資料を探している。
- 回答
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『沖縄大百科事典 下 ナ?ン』(沖縄大百科事典刊行事務局、沖縄タイムス社、1983年)は以下のように記述している。
p.299 「備瀬知恒」の項に「不明?1878年8月24日。浄土真宗の布教者。一向宗法難事件の関係者の1人。那覇東村の人。備瀬築登之親雲上(チクドゥンペーチン)。1844(尚育10)年、仲尾次政隆が浄土真宗の布教を始めたとき、その教えをうけて信仰に入ったと考えられる。・・・76年に来島した真宗僧侶田原法水と協力して布教し、300余人の信徒を得るにいたった。しかし、これも平等所の探知することになり、77年には信徒は流刑、寺入、罰金刑などの処罰を受け、備瀬は八重山へ10年の流刑に処せられた。翌年八重山へ送られる途中、宮古平安名岬で難船し溺死した」とある。
p.299 「備瀬知範」の項に「1987年7月30日?1958年3月29日。音楽教育家。那覇区若狭町村に生まれる。・・・1924年県立第二高等女学校教諭。40年沖縄県教育音楽協会会長就任。・・・備瀬は実践型の教育家で、学校音楽の社会進出をモットーとして、意欲的な活動をした。二髙女時代ブラスバンドを組織して街頭音楽会を開催、沖縄音楽を編曲発表して地域社会への音楽普及に尽くすなど、顕著な実績を残した。58年第3回全琉音楽祭で教育音楽功労賞を受賞。享年60歳。」とある。
①「備瀬知恒」に関する資料
『沖縄大百科事典 上』(沖縄大百科事典刊行事務局、沖縄タイムス社、1983年)
p.200-201 「一向宗法難事件」の項に、「1853年と77年に起こった浄土真宗の布教者と信徒が処罰された一連の事件。・・・旧藩末期、薩摩久志浦の中村氏の子孫仲尾次政隆は、一向宗を信じ密かに布教した。・・・その後、仲尾次の指導を受けた備瀬知恒がその志を継いで布教したが、77年に八重山へ10年の流刑に処せられたほか、360人の信徒も処罰された。」とある。
『壷中天地』(山里 永吉、光有社、1963年)
p.171 備瀬知恒についての記載あり。
『沖縄県姓氏家系大辞典』(沖縄県姓氏家系大辞典編纂委員会、角川書店、1992年)
p.359 備瀬知恒について記載あり。
②「備瀬知範」に関する資料
『宮良長包著作集』(三木 健、ニライ社、2004年)
備瀬知範の寄稿2作あり。略歴あり。
p.209-212 「庶民を音楽に近づけよう。」
p.226-231 「教育音楽の人・宮良長包 ?沖縄音楽の推移?」
『大典記念沖縄人事興信録(複製本 モノクロ) 2-2』(秦 蔵吉、沖縄県人事興信録編纂所、1929年)
p.621 ヒの部 備瀬知範について記載あり。職業、趣味、出身校などの紹介あり。また、「知助二男」とある。
『沖縄県学校制度 1』
p.2-40 現行教員組織表に名前を確認できる。
『沖縄年鑑 第1巻』(日本図書センター、1996年)
p.243 教育音楽功労賞に備瀬知範の名前を確認できる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 1 沖縄大百科事典 下 ナ?ン 沖縄大百科事典刊行事務局∥編 沖縄タイムス社 1983.5 K03/O52/3 p.299
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2 沖縄大百科事典 上 ア?ク 沖縄大百科事典刊行事務局∥編 沖縄タイムス社 1983.5 K03/O52/1 p.200-201 -
3 壷中天地 山里 永吉∥著 光有社 1963.8(2刷) K200.4/Y48/ p.171 -
4 沖縄県姓氏家系大辞典 沖縄県姓氏家系大辞典編纂委員会∥編 角川書店 1992.10 K288/O52/ p.359 -
5 宮良長包著作集 三木 健∥著者 大山 伸子∥著者 ニライ社 2004.2 K76/MI81/ p.209-212、p.226-231 -
6 大典記念沖縄人事興信録(複製本 モノクロ) 2-2 秦 蔵吉∥編 沖縄県人事興信録編纂所 1929.3 K28/H41/2-2 p.621 -
7 沖縄県学校制度 1 K376/O52/1 p.2-40 -
8 沖縄年鑑 第1巻 日本図書センター 1996.11 K05/O52/1 p.243
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 当館所蔵調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000099687