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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼久-2012-149
事例作成日
(Creation date)
2012/11/07登録日時
(Registration date)
2013年03月14日 13時42分更新日時
(Last update)
2013年05月22日 15時58分
質問
(Question)
鎌倉市の稲村ケ崎公園に「十一人塚」がある。そこに祭られている11人の名前を知りたい。
『鎌倉文学散歩』という資料で触れられていた。
回答
(Answer)

新田義貞方の将である大館又次郎宗氏(オオダテ ムネウジ)以下十一人という記述はあったが、名前は判明しなかった。

回答プロセス
(Answering process)

質問典拠資料を確認する。
『鎌倉文学散歩 長谷・稲村ガ崎方面』(鎌倉市教育委員会 1999)
 p155-156 「十一人塚」の項目があり、以下の記載あり。
「(前略)十一人塚は、新田義貞の鎌倉攻めで戦死した新田勢の武将大館宗氏以下十一人を、弔うために建てられた十一面観音堂の跡といわれ、(後略)」
 また、作家の渋沢竜彦の小説「髑髏杯」から一部を引用して掲載している。
 「(前略)伝説によれば、これが大館次郎主従十一人を葬った墓だと言われているがね。(後略)」 「(前略)十一人塚はおそらく無名の兵の墓だろう。(後略)」

所蔵資料の調査
『鎌倉事典』(白井永二編 東京堂出版 1976)
 p148 以下の記述あり。
 「市内稲村ケ崎から極楽寺へ通ずる道路際にある。鎌倉市指定史跡。元弘3年(1333)5月19日の鎌倉攻めで戦死した新田義貞方の将、大館又次郎宗氏以下十一人の霊を弔うために建てられた十一面観音堂の跡という。戦死した将士の数にちなんで、十一人塚とよばれていた。」
『図説 日本の古典11 太平記』(梶原正昭 集英社 1989)
 p58に「鎌倉合戦」の記載があるが、武士の個人名は記載なし。
『太平記 二』(山下宏明校注 新潮社 1980)
 p96-103 「鎌倉合戦の事」「赤橋相模守自害の事」について、巻末の太平記年表に「1333.5.18-19」とある。
 参加した一族名はあるが、戦死した人数、個人名などはなし。
『梅松論・源威集』(現代新潮社 1975)
 p62「當日の濱の大将大館、稲瀬河におひて討取る」とあるのみ。
『新日本古典文学全集 54 太平記』小学館 1994
 p504- 「さる程に、切通しへ向はれたる大舘二郎宗氏、本間に打たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退けぬと聞き給ひければ」とあるが、戦死した人数、個人名などはなし。

『新田義貞 下』(新田次郎 新潮社 1978)
 p89-90 新田義貞の軍として戦った大館宗氏および軍の数名が戦死した記載があり、2名の名前がある。 ただし小説なので、その2名と十一人塚の武士との関係、出典についても不明。
 

以下の資料は関連記述なし
『神奈川県百科事典』(神奈川県百科事典刊行会編 大和書房 1983)
『日本史跡事典1 東国編』(日本史蹟研究会編者 秋田書店 1977)
『鎌倉・室町人名事典』(安田元久編 新人物往来社 1985)p101 大館宗氏に関する記述あり。
『鎌倉武家事典』(出雲隆編 青蛙房 1981)
『鎌倉の寺 カラーブックス 136』(保育者 1979)
『鎌倉の寺 カラーブックス 821』(保育社 1992)
『鎌倉文学碑めぐり』(鎌倉文学館編 鎌倉市教育委員会 1988)
『鎌倉の文化財 第七集』(鎌倉市教育委員会編 鎌倉市教育委員会 1977)p59 「三、記念物 (一)史跡 十一人塚 第一集搭載」と記載あり(第一集は未所蔵)。
『鎌倉の文化財 第八集』(鎌倉市教育委員会編 鎌倉市教育委員会 1978)
『鎌倉の文化財 第十集』(鎌倉市教育委員会編 鎌倉市教育委員会 1978)
『武家の古都・鎌倉の文化財』(五味文彦監修 角川学芸出版 2011)
『鎌倉文学散歩』(安宅夏夫、松尾順造 保育社 1993)
『太平記・上松論の研究』(小秋元段著 汲古書院 2005)

インターネット情報を調査

《鎌倉市》のウェブサイトから「十一人塚」をサイト内検索すると、以下のページがヒット。
 ( http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_sa05.html 鎌倉市 2013/03/12  最終確認)
 以下の記載あり。
 「1333年(元弘3年)鎌倉攻めの新田義貞軍の浜手の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)は大軍を率いて極楽寺坂の切通しへ攻め込みましたが、北条方の猛反撃をうけて多数が討ち死にし、総退却になりました。そして、最後に残った11人もここで自刃してしまったと伝えられています。ここにその11人を葬り、十一面観音の像を建ててその霊を弔ったので、十一人塚と呼ばれています。 この塚の上には大きな松の木がありましたがそれは枯れて、今の松はその後に植えたものです。 十一人塚碑。墓碑」

関係機関情報

 鎌倉市文化財部文化財課に問い合わせ
 『鎌倉の文化財 第1集』(p49-50)に「太平記」による記載があるが、それ以上は不明とのこと。

事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本史  (210 9版)
関東地方  (213 9版)
参考資料
(Reference materials)
キーワード
(Keywords)
大館 宗氏(オオダテ ムネウジ)
十一人塚
鎌倉時代
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
人物
質問者区分
(Category of questioner)
個人
登録番号
(Registration number)
1000128858解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
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