レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/10/10
- 登録日時
- 2014/12/06 00:30
- 更新日時
- 2014/12/06 00:30
- 管理番号
- 6001005293
- 質問
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解決
豊臣秀吉は生涯、木下藤吉郎、羽柴秀吉などと名乗りを変えていますが、それぞれの該当時期(例えば、木下藤吉郎と名乗っていたのはいつからいつまでか)について載っている本や論文があれば教えてください。
- 回答
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「豊臣秀吉」をキーワードに大阪府立図書館の所蔵資料を調査しました。豊臣秀吉の名前の変遷について以下のとおりです。
『豊臣秀吉大事典』(新人物往来社/編 新人物往来社 1996.6)【289.1/1608N/トヨ(2)】
p.162 「名前の変遷」の項目があり
「永禄四年、二十五歳の秀吉は浅野長勝の養女おね(ねい)と結婚、この頃、木下藤吉郎を名乗るようになった。(略)ただし、木下藤吉郎の署名文書の所見は永禄八年である。(略)ついで、天正元年七月、秀吉は羽柴藤吉郎秀吉と改姓した。」
豊臣姓を名乗るまでには経緯があり次の記述があります。
「時は移って天正十三年、秀吉は晴れて関白に任官した。(略)
まず、藤原家の嫡流で関白太政大臣をやめた近衛前久の猶予として藤原秀吉となり、めでたく関白職を譲り受けた。その後で新たに豊臣姓を朝廷に奏聞して許され、こうして源平藤橘の他に新たな豊臣姓が誕生した。まもなく従一位太政大臣にも叙任される。」
豊臣姓を名乗るまでの記述は次の資料にもあります。
『世界伝記大事典 日本・朝鮮・中国編 4 て~ほう』(ほるぷ出版 1978.7)【280.3/9】
豊臣秀吉の項目があり、p.139-140には
「85年3月、正二位内大臣に進み、7月には前関白近衛前久の猶子となり、ときの関白二条昭実にかわって関白の位につき、従一位に叙せられた。(中略)ついで学者に諮問して、源平藤橘の名流とならぶ新しい正の豊臣をえらび、85年9月に勅許を得た。」と記述されています。
次に年譜形式の資料をご紹介します。
『豊臣秀吉事典』(杉山/博/編 新人物往来社 2007.6)【289.1/29N/トヨ】
p.418-421 「豊臣秀吉年譜」下山治久の記述があります。
永禄四(1561)八月、浅野長勝の養女ねねと結婚
永禄八(1561)十一月、坪内文書に「木下藤吉郎秀吉」と署名した。
天正元(1573)八月、羽柴と改名。
天正二年(1574)九月、羽柴筑前守秀吉と名乗る。
天正十三年(1585)九月、豊臣姓を朝廷から許される。
『図説太閤記 毎日ムック』(毎日新聞社 1996.1)【289.1/1640N/トヨ】
p.160-161 「豊臣秀吉略年譜」杉田幸三の記述があります。
永禄四(1561)浅野氏の養女おねと結婚。木下藤吉郎秀吉と名乗る
天正二年(1575)信長に従い長篠に闘う。従五位下に序し筑前守、羽柴姓を受ける。
天正十三年(1585)正二位・内大臣に叙任。従一位・関白に叙任。
天正十四年(1586)太政大臣に任じ豊臣姓を賜う。
次の資料を大阪府立中之島図書館で所蔵しておりこの年譜の記述は以下のとおりです。
『秀吉展 黄金と侘び』(大阪市立博物館[ほか]編集 NHK大阪放送局 1996) 【289.1/2116N/トヨ】
の年譜には 天正十四年十二月、秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を天皇から与えられる(十三年説あり)。」との表記があり、
確定(定説)はなさそうです。
[事例作成日:2014年10月10日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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- 豊臣秀吉大事典 新人物往来社∥編 新人物往来社 (162)
- 世界伝記大事典 日本・朝鮮・中国編 4 ほるぷ出版 (139-140)
- 豊臣秀吉事典 杉山/博∥編 新人物往来社 (418-421)
- 図説太閤記 毎日新聞社 (160-161)
- 秀吉展 大阪市立博物館∥[ほか]編集 NHK大阪放送局
- キーワード
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- 豊臣秀吉(トヨトミヒデヨシ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000164092