レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2000/09/30
- 登録日時
- 2005/12/13 02:11
- 更新日時
- 2010/11/25 02:00
- 管理番号
- 新県図-00026
- 質問
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解決
イタリア軒のミオラが属していた曲馬団の名前には2説あるが、イタリアの「チャリネ曲馬団」とフランスの「スリエ曲馬団」のどちらが正しいのか。
こちらで調べたところ、『新潟市史 資料編5 近代1』はチャリネ説だが、『新潟開港百年史』はそれを否定している。ホテルイタリア軒は、ホームページではチャリネとしている。
- 回答
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下記資料の紹介をもって回答とさせていただきます。ご紹介した資料を参照の上、ご検討くださいますようお願いいたします。
なお、1でご紹介するチャリネ曲馬団説に関する資料でも、『イタリア軒沿革史』を出典とした資料は「スリエの率いる」という表現をしています。また、チャリネ曲馬団の来日は明治19年ですから、チャリネ曲馬団に属してのミオラの来日はあり得ないことになります。1,2,3を総合すると、イタリア人ミオラが属していたのは「フランス人スリエの率いるスリエ曲馬団」であったと解釈できます。
1.チャリネ曲馬団説
(1)『新潟市史 資料編5 近代1』p627
(2)『イタリア軒沿革』(イタリア軒 [1931])同一内容
(3)『新潟古老雑話』(1931初版発行)p89
「イタリア軒 イタリア軒も御蔭様で繁盛しているが、其起源は明治七年曲馬師チャリネ一行が、新潟毘沙門島へ興行に来て引揚げの際残していったのが、イタリア軒最初の主人ミオラさんで…」
(4)『新潟かわらばん』(笹川勇吉著 鳥屋野出版 1988)p22
「イタリアよりチャリネ曲芸団が新潟を訪れ、天幕を張って興行し街中がわいた。その賄方だったピオトロ・ミオラが事故のため一人新潟に残ることになり…」
(5)『イタリア軒物語』(田村民雄著 新潟日報事業社 1964)p46
「チャリネ曲馬団に入って、ミオラの一行はしばらくイタリア国内を巡業していた。」
2.スリエ曲馬団説
(1)『新潟開港百年史』p154
「イタリア人ピートロ・ミオラ(ピエトレ・ミリオーレ)は明治7年9月フランスのスリエ男女曲馬団員として一行と共に来港し…ミオラは単身新潟にとどまり…イタリア軒を開いたが…」「なおミオラの属した曲馬団をチヤリネ曲馬団と記す文献もあるが、それに関してわが国の曲馬団の歴史を調べてみた。近世舶来サーカスの始めは、元治元年3月イギリス・サーカス一座が横浜で興業したのが始めで…其後サーカスは明治4年10月にフランスのスリエ一座が来朝し横浜を皮きりに各地で興業した。そして十数年後の明治19年には、イタリア人のチヤリネ一座が来朝した。」
「イタリア人なので、19年に来朝したチヤリネ曲馬団と混線して誤り伝えたのではあるまいか。」
(2)『新潟市史読本』p208
「イタリア軒を始めたイタリア人ミオラ(ピエトロ・ミリオーレ)がチャリネ曲馬団に属して明治七年新潟に来たとする、『新潟古老雑話』の説はおそらく誤伝であろう。なるほどジー・チャリネはミオラと同じくイタリア人ではあるが…(『明治文化版画大鑑』)」
「ミオラがコックとして属していたのは明治四年来朝し九段の靖国神社境内でわが国で最初の曲馬を公開したフランス人シュリエの曲馬団である。(『イタリア軒物語』)」
3.曲馬団史
(1)『ニッポン・サーカス物語』(三好一著 白水社 1993)p167,170
(2)『サーカスの歴史』(阿久根巌著 西田書店 1977)p41~43,p75
「明治四年(一八七一)八月、外来見世物の第二番目、フランス人スリエの曲馬が…」
「スリエはまた思わぬことろにエピソードを残している。明治七年(一八七四)に、再度来日したスリエ曲馬団が、五月に新潟湊町で興行の時、座員(食事の賄い)のイタリア人ピエトロ・ミオラ(ミリオーレ)が病気で倒れた。一行が引揚げる際、ついて行けず、異国の町に一人とり残された傷心のミオラに、ときの楠木県令が同情し牛肉店を出させた。やがて西洋料理にも手をひろげ、明治一三年レストラン・イタリア軒を創業し、大正九年十一月、ミオラは故国で死んだと伝えられている。(岡田民雄『イタリア軒物語』)」
「明治十九年(一八八六)、伊太利チャリネ大曲馬団の一行は上海より来日…」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- イタリア軒
- ミオラ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 簡易な事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般利用者
- 登録番号
- 1000025727