レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 1999/08/31
- 登録日時
- 2005/12/13 02:13
- 更新日時
- 2010/11/25 02:01
- 管理番号
- 新県図-00180
- 質問
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解決
江戸時代の時刻制度について教えてほしい。
1.八つ時、八つ過ぎの八の数字はどこから来ているのか。六つ時、五つ時もあるのか。これらの時刻の呼び方がわかる一覧表がほしい。
2.子の刻、丑の刻のように十二支の名を付けて読んでいた頃、現在のように円形に12分されたような時計を使い、数字の代わりに子、丑などと表示されていたのかどうか。
3.江戸時代の時刻制度についての資料を知りたい。
- 回答
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1.江戸時代の時刻の呼び名は、不定時報という「一日を昼と夜に分け、それぞれを六等分に分割するもので、季節によって昼と夜の長さが異なり、したがって単位時間の長さも変化」(『和時計』沢田平著 淡交社より)するシステムによるものです。
『国史大辞典 7巻』の「時法」の項には、「混乱を避けるために、暁九ツ・八ツ・七ツ・明六ツ・朝五ツ・四ツ・昼九ツ・八ツ・夕七ツ・暮六ツ・夜五ツ・四ツと呼称された」とあります。
『古時計』(新装改訂版 塚田泰三郎等著 東峰書房)のp101に、時計盤に見たてた一覧があります。
『日本の時刻制度』(橋本万平著 塙書房)には次のように述べられています。
「延喜式に見られる時報の数は、後世まで襲用されているのであるが、何故にこの様に子午で九つ、丑未で八つという様な不思議な数が使用されるようになったかについては、首肯し得る説明は見つからない。次の様な説もあるが、いずれも信用できない。」
「第一は、陰陽思想から発したものである。陰陽思想では九という数字を非常に重視し、日中及び真夜中の時刻すなわち午の時と子の時には九九の、十九が九で九を打ち、以下順に申寅では三九の二十七で七つ、酉卯では四九の三十六で六つ、戌辰では五九の四十五で五つ、亥巳では六九の五十四で四つを打ったというのである。
第二の説は、日暮れである申の時を基準として、十二支を逆に勘定し九番目に当たる子時に九つ、八番目である丑の時に八つ、以下順に七つ、八つと鳴らしていった。又他方、夜明けである寅を基準として逆算し、九番目の午の時から同様に九つ、八つと打っていったとするのである。全く荒唐無稽に近い説であるが、現在ではこれ以外の説明は見つかっていない。」
また、『大江戸テクノロジー事情』(石川英輔著 講談社)では、「なぜこんな奇妙な数え方をするのか、その理由についてはいろいろな説があるが、いずれも現在のわれわれが納得できるような合理的な意味はない」
『古時計』では「これについていろいろ意味づける説はありますが、わが国独自の監修によるもので、以前流行語になった一種のファジーとでもいうものでしょう。」
『暦の百科事典』(暦の会編 新人物往来社)では「数々の説があるが、納得できるものは一つもない。」と述べられており、定説がないようです。
2.円形に12分割されたような時計を使っていたかについては、『古時計』のなかに、和時計に文字盤が付いていました。ほかの資料にも類似した文字盤の写真があり、子、丑などの表示があったことがわかりました。
3.江戸時代の時刻制度については奥が深いようです。直接関連資料をご覧いただくのが最善かと思いますので、以下に関連資料をご紹介いたします。
『日本の時刻制度』(橋本万平著 塙書房)請求記号:449-H38
『大江戸テクノロジー事情』(石川英輔著 講談社)402-I76
『暦の百科事典』(暦の会編 新人物往来社)R449-Ko97
『古時計』(新装改訂版 塚田泰三郎等著 東峰書房)535-Ts52
『現代こよみ読み解き事典』(岡田芳朗、阿久根末忠編著 柏書房)R449-O38
『暦と時の事典』(内田正男著 雄山閣)R449-U14
『日本大百科全書 13』(小学館)R031-N71-13
『和時計』(沢田平著 淡交社)535-Sa93
『古代の時刻制度』(斎藤国治著 雄山閣)449-Sa25
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 天文学.宇宙科学 (440 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 江戸時代の時刻制度
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 一般
- 質問者区分
- 一般利用者
- 登録番号
- 1000025881