レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年04月25日
- 登録日時
- 2019/10/11 17:35
- 更新日時
- 2019/10/23 15:33
- 管理番号
- 地-190004
- 質問
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解決
横浜市戸塚の女性俳人、内田かね(俳号・操林堂三兼女)という人物、作品等、幅広く知りたい。
- 回答
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・『横浜歴史年表 上巻下巻索引』 横浜市横浜歴史年表編纂委員会編 白話社 1973 <K21.1/2A 常置> (50452762)
p289 1907年(明治40年)「文化史」に、
「9,15 戸塚の俳人内田三兼女が歿した。兼六の妻で、俳句を玄林堂に學び、操林堂三兼と號した。辭世の句「着替へたる袂へうつす手まりかな」と書かれています。
・『戸塚区の歴史 下巻』大橋俊雄著 戸塚区観光協会 1981<K21.19/13/2 常置>(60107992)
p109-110に、「このほか戸塚在住の幕末期の俳人としては、玄林堂柏二があり、その門弟に操林堂三兼(内田三兼女)・桜松堂文雅(内山文蔵)・朝倉餅酒(朝倉半蔵)が出、(中略)」
と書かれています。
・『戸塚郷土史』中島富之助著 大和学芸図書 1978<K21.19/3A 常置>(50453646)
p483-484に、
「子にかえる日に着初たる袷かな 九月五日夫の永の旅立せられしに
今日とたち昨日と過(しんにょうの点が二つある旧字で記載)て秋の夕
老樂もし喜文字壽く文月かな
昨日見た花をすゝめて留守居かな
着替へたる袂へうつす手まりかな
三兼女は文政八年四月五日腰越に生る。中村英菴の長女にして戸塚町内田善六に嫁し、俳句を玄林堂宗匠に學び、操林堂三兼と號す。明治四十年九月十九日死去。享年八十四。」
と書かれています。
・『戸塚区史』戸塚区史刊行委員会 1991 <K21.19/14 常置>(60017365)
p563「戸塚関係近代史年表」1907(明治40)年の「地域のできごと」に、「9.15 戸塚の俳人内田兼女没。」と書かれています。
・『とみづか 第20号』戸塚歴史の会 1993<K20.19/1/15/20 常置>(60105392)
p44~p49「戸塚宿文化人の住所考」小澤良吉著のp45に、
「内田三兼女
文政八年四月腰越に生まれ、四〇三一番地内田善六に嫁し、俳句を玄林堂に学び、操林堂三兼女と号した。明治四十年九月十九日死去、享年八十四歳、高松寺に眠る。法名慈昭院三宝智兼大姉 かね。」と書かれています。
・『とみづか 第31号』戸塚歴史の会 2005<K20.19/1/31 常置> (60422235)
p43~p47「戸塚ふれあい文化祭展示 ◇戸塚の文化人」及川治雄著のp44に、
「内田 三兼女・操林堂・・・俳人。馬場玄林堂に師事。
初代戸塚郵便局長内田善六夫人。一八二五~一九〇七(「戸塚郷土誌」)。
と書かれています。
・『とみづか 第38号』戸塚歴史の会 2012<K20.19/1/38 常置> (60619418)
p2~p25「[1]戸塚の文人たち Ⅰ寺院別にみる文人たち 高松寺」杉山一雄・及川治雄著のp17に「内田かね墓」の写真があり、
「◆名 内田 かね
◇号 操林堂三兼女(俳人)
文政八(一八二五)年四月五日、鎌倉腰越の中村英庵の長女として生まれる。戸塚一丁目の内田善六(郵便局長)に嫁ぐ。俳句を寺子屋玄林堂を開いた俳人馬場士恭に学んだ。
戒名 慈照院三宝智兼大姉
明治四〇(一九〇七)年九月十九日没、八四歳
子にかえる 日に着初めたる 袷かな
着替えたる 袂へうつす 手まりかな」
と書かれています。
- 回答プロセス
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神奈川県史、横浜市史、戸塚区史を調査したが、詳しい情報を得られなかった。そのため、戸塚区の郷土史団体が発行している『とみづか』を確認した。また、『戸塚郷土史』を調査した。
- 事前調査事項
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1825年旧暦4月5日、鎌倉腰越(恵風園病院)の中村英庵の長女として生まれる。のちに戸塚一丁目の旧内田本陣・内田善六(戸塚郵便局長)へ嫁いだ。俳句を戸塚に寺子屋を開いた俳人馬場士恭(玄林堂柏二・大磯鴫立庵系)に学んだ。没年月日は1907年9月15日。
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 詩歌 (911 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 横浜市戸塚区
- 内田かね
- 俳句
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000262553