レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/08/02
- 登録日時
- 2023/03/30 00:30
- 更新日時
- 2023/03/30 17:21
- 管理番号
- 0000001530
- 質問
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解決
玉泉院丸の色紙短冊の石垣に流れる滝は、いつできたのか?
- 回答
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『金沢城跡-玉泉院丸庭園Ⅱ-』(石川県金沢城調査研究所?編集 石川県金沢城調査研究所 2018.3)
「第3節玉泉院丸の沿革(2)江戸後期の玉泉院丸②滝の構造」に、
「江戸後期から幕末期にかけての玉泉院丸の歴史を語る上で注目すべきは安政3年(1856)に滝を造ったという記事である。藩主斉泰や世子慶寧の近習加藤三郎座衛門の「公私心覚」(加越能文庫)の安政3年8月18日条には「玉泉院丸の庭に瀧を作るようにとのことで、もはや七割程度が完成した。(中略)完成の記載は見当たらない、おそらく9月か10月末までには竣工したと思われる。」(p39)とある。
- 回答プロセス
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(1)『よみがえる金沢城』2(石川県金沢城調査研究所?編 石川県教育委員会 2009.3)p52
「平成20年度の本丸北部で実施した発掘調査によって、泉水と思われる遺構が発見され、本丸北部に直径22メートルくらいの泉水が、元和六年から寛永八年頃に作られたことがわかった。この結果、東ノ丸や玉泉院丸に寛永大火以前、すでに庭園があったという伝説もまんざら否定されるべきものではなくなった」とあるが、滝については触れていない。
(2)『金沢城跡-玉泉院丸庭園Ⅰ-』(石川県金沢城調査研究所?編集 石川県金沢城調査研究所 2015.3)、『金沢城跡-玉泉院丸庭園Ⅱ-』(石川県金沢城調査研究所?編集 石川県金沢城調査研究所 2018.3)には、文献資料による玉泉院丸の経緯が記されている。
(3)『金沢城跡-玉泉院丸庭園Ⅱ-』第7章まとめによると、
・「滝壷周辺の石組は、作庭当初の景色のままではなく、庭園改修後の様相を示すと考えられる。」(p390)
・「今回確認された滝壺の玉石敷きの標高は溜りの部分で37.7mを測る。一方暗渠の底板が確認された部分の松坂の嵩上げ前とみられる聖地土地の標高は37mであり、滝壺の玉石敷面のほうが高くなっている。そのことは、作庭段階では滝壺が存在していなかったのか、もっと低い場所にあったか、池への導水と相まって課題の一つといえる。」(p392)
とあり、文献資料による経緯と矛盾はしていない。
- 事前調査事項
- NDC
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- 園芸.造園 (62 9版)
- 参考資料
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- 1 金沢城跡 石川県金沢城調査研究所?編集 石川県金沢城調査研究所 2018.3 K391/1023/33
- キーワード
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- 金沢城
- 庭園
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000331211