当時の詳細なルートについて記載された資料は見つからなかった。『岩槻市史』や岩槻城に関する資料の中から、将軍の通った道に関する記述や岩槻城本丸(御殿)の図等が掲載されている資料を紹介した。
(1)『岩槻市史 通史編』岩槻市役所 1985年
p592 日光御成道
将軍御成の道ということが書いてあるが、詳細なルートは書かれていない。
p514 本丸御殿屋形絵図
p513~岩槻城本丸の記述があり、「御殿は、御上段、二之御間、溜之間、広間、御膳所などから成り、日光社参の折将軍の宿泊所として使用されたのである。」との記述がある。
(2)『岩槻市史 近世史料編 3-[下]』岩槻市役所 1981年
第7章 日光社参
史料一 日野資勝卿記抄録
元和三年将軍秀忠によるはじめての日光社参と、寛永九年の家光日光社参に奉幣使の一人として随行した京都の公家日野資勝の道中記録。P385~解説に「これによると、元和三年の将軍社参時における道順は千住からの奥州街道を通ったが、将軍は越ケ谷から公家などの一行と分かれ、岩槻城に入っている。」、「もっとも将軍日光社参の道中は岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻のいわゆる旧鎌倉街道を通行するのが通例となり、日光御成街道と呼ばれるようになった。その時期はつまびらかでないが、寛永十七年の家光日光社参には「平柳錫杖寺にて昼餉を奉り、この夜岩槻の城にやどらせ給ふ」とあるので少なくともこのときは御成道を通っていたことが知れる。」といった記述がある。
史料二 風林雑録抄録
史料三 享保日光抄録
享保十三年四月八代将軍吉宗による日光社参時の記録。岩槻城での将軍お迎えやお送りなどの様子がわかる史料。
史料四 日光社参ニ付大岡家往復書簡
天保十三年四月に行われた将軍家慶日光社参にかかわる岩槻城主大岡主膳正忠固の往復文書。
史料五 徳川実紀抄録
『徳川実紀』からの将軍日光社参にかかわる記事の抄録。
史料六 日光社参道中絵図
附図
1 岩槻城本丸御殿絵図 前述の『岩槻市史通史編』p513に本丸御殿が日光社参の折将軍の宿泊所として使用された旨記述がある。
2岩槻城二の丸絵図 3岩槻城三の丸絵図 4岩槻城侍屋鋪絵図 5旅館割付絵図
(3)『岩槻市史 近世史料編 3-[上]』岩槻市役所 1981年
附図
1 武州岩槻城図 2岩槻城図 3岩槻城惣絵図 4 岩槻城 侍屋敷城下町迄惣絵図
5 岩槻城図
(4)『岩槻市史 近世史料編 4-[下]』岩槻市役所 1982年
第九章 伝馬・日光社参
伝馬と日光社参に関する陸上交通の諸史料を収めている。例えば、史料七 安永五年一〇代将軍家治日光社参御供衆の岩槻宿旅宿の覚書などが収録されている。
(5)『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市役所 1984年
p 382~ 二 日光御成街道
(6)『岩槻城と城下町』岩槻市教育委員会教育総務部生涯学習課文化財係/編集 さいたま市立博物館 2005年
第六章 近世の岩槻城と将軍家日光社参
p88 「さらに、徳川将軍家の日光社参で宿泊所として岩槻城が利用されたことは特筆される。(略)岩槻城では将軍専用の御殿が常時建てられていた。」とある。
p96「御殿は主人が住まう殿舎のことである。特に江戸近郊の御殿といえば、将軍が御成のときに休憩・宿泊する殿舎をさす」とある。
p97 松平忠周時代の岩槻城本丸御殿の図版がある。
p102 享保の日光社参時の二の丸将軍御座所の図版がある。
(7)『日光御成道』埼玉県教育委員会/編集 埼玉県立博物館/編集 埼玉県県政情報資料室 1984年
p14~ 日光御成道の成立
必ずしも日光御成道を通っていたわけではないという内容の記述がある。
p75~ 日光社参と岩槻城
城主が将軍を出迎えて先導したことなどが書かれていますが、詳細なルートについては記載がない。
(8)『日光御成道散歩マップ 岩槻の巻 Ⅰ(加倉~龍門寺)』埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会/編 埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会
(9)『日光御成道散歩マップ 岩槻の巻 Ⅱ(龍門寺~鹿室)』埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会/編 埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会
日光御成道の一枚ものの地図。「徳川将軍家 日光社参 宿泊は江戸~1日:岩槻城~2日:古河城~3日:宇都宮城~4日:日光連泊とし、旅程は江戸~岩槻~幸手宿まで日光御成道で、幸手以降は日光道中を行く。」との記述がある。
(10)『岩槻城址マップ』さいたま市岩槻区観光経済室 2012年
江戸時代後期の岩槻城絵図を現在の地図に重ね合わせたもの。本丸御成門のごく簡単な図(古地図に描かれていたもの)が掲載されている。
(11)『よみがえる日本の城15』学研 2005年
p 34~39 岩槻城
p 34~35 岩槻城復元イラスト
「武州岩槻城絵図」をもとに復元された城のイメージイラスト。本丸御殿も描かれている。
p 36 岩槻城惣絵図