レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年02月12日
- 登録日時
- 2018/11/14 15:01
- 更新日時
- 2019/03/08 14:04
- 管理番号
- 埼熊-2018-054
- 質問
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解決
「大須賀快庵」について書かれた資料、系図などを見たい。
- 回答
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以下の資料に記述があった。
『日本文化研究 第5巻』(新潮社 1959)
p8「また那倍の姉の嫁いだ大須賀家は代々京都の名医として名高く、夫快庵の父は後陽成上皇の御脈を診、快庵も善医をもって聞こえた。大須賀・伊藤両家の間には仁斎の幼児〔ママ〕より親しい交際があった」とあり。
p9「源吉〔仁斎の幼名〕は十一歳の時に、外戚の大須賀快庵について句読を習った」とあり。
p32「更に仁斎の妹の夫の大須賀快庵」とあり。
『中村幸彦著述集 第11巻 漢学者記事』(中村幸彦著 中央公論社 1982)
p56「仁斎幼名源七〔ママ〕が初めて師につき句読を習い、大学の首章に感嘆して、儒に志したのはその十一歳の時であった。彼の句読の師は誰か。叔母聟大須賀快庵についたり、京の堀川丸太町上ル所で寛永四年七月二十日に生れた彼は、近くの二条堀川にあった松永尺五の講習堂へ顔を出したこともあったらしい」とあり。
『江戸時代医学史の研究』(服部敏良著 吉川弘文館 1978)
p53「(33)大須賀快庵 名を徳純という。仁斎の姨の夫である。京都の人で代々医を業としていた。父は慶長年間上皇の診脈にあずかり名を著わしたといわれ、徳純も父の業をつき、医名をあげた。小倉の小笠原侯に仕え、島原の乱に従軍したが、のち京都に隠棲した。学深く仁斎も師事したことがあった。仁斎はかつて『中庸解』を著し、これを徳純にみせたところ、徳純は大いに感心し、自分の及ぶところに非ずと賞めたといわれている。八十余歳で没し、東涯も徳純をよく識り、君子と称すべき人也と記している。(『先游伝』、富士川游著『日本医学史』)」とあり。
《データベース『えひめの記憶』》(http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/54/view/7219 愛媛県生涯学習センター)
「愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行) 一 堀川学のおこり 1伊藤仁斎」
「仁斎は、自分の書斎を「誠修」と名づけ、ほとんど独学で経書を読解した。姉夫大須賀快庵に若干の手ほどきを受け、一~二回松永尺五を訪問したにすぎない」とあり。
- 回答プロセス
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1 参考図書を確認する。
『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編 〔1〕(あ〜す)』(日外アソシエーツ 1996)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社編 朝日新聞社 1994)
『新潮日本人名辞典』(尾崎秀樹[ほか]編集 新潮社 1991)
『日本歴史人名辞典』(日置昌一編 講談社 1990)
『日本人名大辞典 1 ア-オ』(平凡社 1986)
『日本近現代医学人名事典』(泉孝英編 医学書院 2012)
「大須賀快庵」の記載なし。
2 《Google ブックス》(http://books.google.co.jp/ Google)を〈大須賀快庵〉で検索する。
『江戸時代医学史の研究』(回答資料)
『日本文化研究 第5巻』(回答資料)
『中村幸彦著述集 第11巻 漢学者記事』(回答資料)
3 自館目録を〈書名:江戸 & 医〉で検索する。
『関東近世史研究論集 2 宗教・芸能・医療』(関東近世史研究会編 岩田書院 2012)
関連記述無し。
4 《Google》(http://www.google.co.jp/ Google)を〈大須賀快庵〉で検索する。
《データベース『えひめの記憶』》(回答資料)
ウェブサイト・データベースの最終アクセス日は2017年2月12日。
- 事前調査事項
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寛永年間の人物で京都で天皇家の侍医を務めていた。父も医者で、陽成上皇の脈を診たことがあるなどのエピソードがある。
出典は『伊藤仁斎』(石田一良著 吉川弘文館)p21。
- NDC
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- 医学 (490 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『日本文化研究 第5巻』(新潮社 1959)
- 『中村幸彦著述集 第11巻 漢学者記事』(中村幸彦著 中央公論社 1982) , ISBN 4-12-402151-8
- 『江戸時代医学史の研究』(服部敏良著 吉川弘文館 1978) , ISBN 4-642-01289-3
- キーワード
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- 大須賀 快庵(オオスガ カイアン)
- 伊藤 仁斎(イトウ ジンサイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000245799