レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 大阪市立中央図書館 (2210006) | 管理番号 (Control number) | 6521007470 | |||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2021年08月14日 | 登録日時 (Registration date) | 2021年09月20日 00時30分 | 更新日時 (Last update) | 2021年12月29日 00時32分 | |||||
質問 (Question) | 平田(へいた)の渡しについて知りたい | |||||||||
回答 (Answer) | 平田の渡しは、現在の大阪市東淀川区と旭区、淀川の対岸を結んでいた渡し船です。 「平田」の名の由来については、『淀川流域の伝承』(資料1)には「渡守(わたしもり)の平太が経営にあたったから」と記載があり、『大阪市渡船場マップ』(資料2)には「大坂町奉行から認可を受けて手広く渡船業を営んだ土豪澤田佐平太の名から取ったものではないかといわれているが、渡しのあった地名(西成郡平太村)から来たとも考えられる」と記載されています。 『旭区史』p.174-176(資料3)に以下のことが記載されています。 平田の渡しは、1676(延宝4)年ごろ、個人営業で発足し、1907(明治40)年から公営になり、当時の渡し賃はおとな2銭、こども1銭、牛馬4銭で、1日の利用客は約100人ほどでした。1925(大正14)年の市域拡張で大阪市営となり、市営となるのと同時に無料になりました。 戦後、周辺の市街地化で利用者が増え、20人乗りの手漕ぎ船から、1960(昭和35)年には発動機船を就航させるに至りました。最盛期には1日に約3000人の乗客と670台の自転車を運んでいました。 しかし、1970(昭和45)年3月豊里大橋の完成により、淀川最後の渡しとなった平田の渡しも290余年の歴史を閉じました。現在東淀川区と旭区の両岸に平田の渡し跡碑が建てられています。 江戸時代には、この平田の渡しと、淀川のさらに下流にあった源八の渡しの名をもじって作られた、関口平太と新道源八という人物が登場する歌舞伎脚本『三十石艠始(さんじっこくよふねのはじまり)』が上演され、空前の成功を収めました。『大阪史蹟辞典』p.467(資料4)に記載されています。 大阪市旭区のホームページで閲覧できる『旭区地域史 -詳細版-』p.90-91にも「『平太』と『今市』の渡し」の項目があり、関連する記述や渡し跡の碑の写真などが掲載されています。 https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2021.12.27確認) | |||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1.当館所蔵検索をフリーワード“平田の渡し”で検索、ヒットせず 2.当館所蔵検索をフリーワード“淀川 歴史”で検索、(資料1)が見つかる 3.当館所蔵検索をフリーワード“渡船”検索、(資料2)が見つかる 4.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ )をキーワード“渡船”で検索、(資料3)が見つかる 5.大阪の地名辞典(資料4)の「平田の渡し」の項目を確認 6.大阪市ホームページを“平田の渡し”で検索、(資料5)が見つかる | |||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||||
備考 (Notes) | ||||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||||
登録番号 (Registration number) | 1000304886 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |