レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年03月17日
- 登録日時
- 2010/03/17 18:06
- 更新日時
- 2010/12/24 12:55
- 管理番号
- さいたま-大-20100007
- 質問
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解決
さいたま市大宮区にある「大宮公園」はとても大規模な公園であるが、いつ、どのように整備されたのか知りたい。
- 回答
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明治政府は、明治6年(1873)に各府県に対し「寺院の境内地等名所・旧跡地に公園を設置するので、候補地を選定せよ」との布告を出しました。
このときは、埼玉県からは浦和調神社境内のみが偕楽園となることになりましたが、大宮氷川神社境内でも若干の樹木の伐採、小路の設置などを施し「万民偕楽の遊園」が設置されたようです。これが後の武蔵国一之宮氷川神社公園(現県立大宮公園)となります。
その後、明治17年3月、氷川神社公園を本格的なものにしようとの動きが起こり、大宮宿ほか10ケ村の代表者らによる「公園及ビ維持方法ノ儀二付願上ゲ奉リ候」という公園設置請願書が県令(県知事)吉田清英に提出され認められました。しかし、彼らには造園技術がなかったので、県の管理の下で公園建設工事は進められました。
翌明治18年4月には公園の管理所、及び休憩所として2階建ての含翠亭(がんすいてい)が完成、園内各所にあずまややベンチが設置されるなど、次第に公園らしくなってくると、同年秋、遂に開園式が挙行されるに至りました。
当初、有志の者が金千円を銀行に預金し、その利息を公園の管理費に充てる予定でしたが、折からの不景気でその計画が頓挫すると、県の勧業課の管理下で当時の管理主体であった北足立新座郡役所は、はじめは貸出をしない予定でいた園内の土地まで、旅館、料理屋、演芸者等の民間業者に貸し付け、その借地料を管理費に充てるなど、管理事業の遂行には相当な苦労が伴ったようです。
なお、当時の旅館・万松楼(ばんしょうろう)には、まだ東京帝国大学の学生だった正岡子規や、彼に呼び寄せられた夏目漱石など文人も訪れており、太宰治にいたっては、彼の代表作である「人間失格」を、大宮公園近くに住みこみ書き上げた、との記録も残っています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 造園 (629 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
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- 『大宮文学散歩 大宮雑記帳8』 秋山喜久夫著 丸岡書店 1976 (p121~168)
- 『大宮のむかしといま』 大宮市 1980 (p165~170)
- 『埼玉の文学めぐり 郷土の文学散歩』 関田史郎著 富士出版印刷 1972 (p272)
- キーワード
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- さいたま市大宮区
- 大宮公園
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000064769