詳細な記述がある資料は確認できませんでした。
関連の記述を確認できた資料は次のとおりです。
・『カトリック松が峰教会宣教100年の歩み』(カトリック松が峰教会/編、発行 1988)
p.23-24「栃木県の宣教の始まり」の項に、「南那須町や藤岡町に現存している石像がわずかにこの間の厳しい状況下での歴史を物語っているようではあるが、さらに詳細な記述のためには今後の発掘が待たれる次第である。」とあります。(p.24)
また、「南那須町下小倉観音堂」の写真が掲載されています。
・『日本キリスト教歴史大事典』(日本キリスト教歴史大事典編集委員会/編 教文館 1988)
p.948-949「栃木県」の項に、「教皇シスト5世の教書や組講の規則が那須あたりから水戸藩に没収されたことをみても、布教は活発に行われ、多くの信者がいたことが想像される。しかし、「吉利支丹出申国所之覚」に「奥平美作守領分宇都宮より宗門四五人出申候」とある以外、宗門改帳、高札の類を散見するのみで史料・遺跡などは残っていない。」とあります。(p.948)
インターネット検索から、「旭観音堂」が烏山市にあるとの情報を得たため、烏山のキリシタンについてもお調べしました。
・『北関東のカトリック』(カトリック浦和教区史誌編集委員会/編 カトリック浦和教区事務所 1990)
p.73「キリシタン殉教地及び遺跡一覧」の図中に、「烏山」の記載があり、3名の氏名が記載されています。
・『関東平野の隠れキリシタン』(川島恂二/著 さきたま出版会 1998)
p.799-800「2.喜連川町の切支丹」の項に、「(前略)織田信雄は烏山二万石城主で天正十八年七月から天正十九年正月まで知行した。織田も細川も切支丹大名であったから、栃木県北には徳川移行期の初期には切支丹が入っていた。」とあります。(p.800)
・『烏山町史』(烏山町史編集委員会/編 烏山町 1978)
p.139-140「宗門改帳」の項に、「この帳簿は村名主が毎年全村民の移動を詳細に調べ、だれが何寺の檀家であり、同時にキリスト教徒ではないことを確認するものである。」とあります。(p.140)
以下の資料は、お調べしましたが、記述を確認できませんでした。
・『栃木県の彫刻』(野中退蔵/〔著〕栃木県教育委員会 1977)
・『西那須野教会百年史』(西那須野教会百年史編さん委員会/編 日本基督教団西那須野教会 1991)
・『那須烏山の歴史を歩く』(森戸一男/著 しもつけの心出版 2012)
・『しもつけの石仏探訪』(小林正芳/著 2002)
・『烏山風土記 改訂2版』(加倉井健藏/著、発行 1988)
・河﨑時悦/著「下野キリシタン史稿」(『栃木史心会会報 第26号』(栃木史心会/編、発行 1994)p.41-52所収)
・『栃木県史 通史編4』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1981)
・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編、発行 1980