レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年10月10日
- 登録日時
- 2019/10/27 16:53
- 更新日時
- 2020/01/07 13:38
- 管理番号
- 島根郷2019-10-002
- 質問
-
解決
隠岐出身で、幕末に佐久間象山を暗殺したといわれる松浦虎太郎(虎吉)について知りたい。
- 回答
-
当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。
資料1:p544「松浦虎吉」の項目あり。1843~1887。隠岐島西郷の庄屋の長男として生まれる。家業は俵物を集荷する問屋であった。安政5年(1858)に長崎へ行ったのをきっかけに尊王攘夷運動に身を入れ、隠岐を脱出。鳥取で剣術を学び、上洛する。南長次郎・秦清之丞などの変名を使い京都で活動、勤王の志士らと交わる。文久3年(1863)に宮部鼎蔵・松田重助らと境港に潜伏、元治元年(1864)には池田屋事件に遭遇、同年7月に佐久間象山暗殺の刺客の一人が虎吉であったと伝えられる。象山暗殺後は消息不明となったが、明治2年(1869)に叔父を頼って隠岐に帰郷したと伝えられる。
資料2:p20-38「隠岐人・松浦虎太郎の生涯-幕末維新期をかけめぐる-」(藤田新)。昭和50年3月17・18日付山陰中央新報に掲載された田邑二枝の記事「隠岐島異聞-草奔の臣 松浦虎吉」(上・下)を紹介。松浦虎太郎は隠岐・西郷町宇屋町の庄屋松浦家に生まれる。16歳のとき庄屋職を継ぎ、また家業の俵物の集荷問屋も継いだ。17歳の時に俵物会所へ挨拶するために長崎を訪れたが、この時に時局の趨勢を目の当たりにし、隠岐に帰郷するも、鳥取藩の浅田塾に入門して剣技を学び、文久元年には京都に上り勤王志士と交流を持つようになった。虎太郎のいとこである松浦荷崎の手記には、文久3年夏に虎太郎と熊本藩の宮部鼎造・松田重助が境港の寺に潜伏していて、寺の住職と荷崎は親友であったことからこの3人と密談した、との記述があるという。この後の元治元年に新選組による池田屋事件で宮部・松田は死亡、虎太郎は遭遇するも難を逃れて長州に走り、さらには佐久間象山に天誅を加えることとなった、とも手記には残っているとする。(以上は田邑記事概要)
また佐久間象山暗殺後は長州から九州へ渡ったとし、虎太郎の足跡を論じる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (281 8版)
- 日本史 (210 8版)
- 参考資料
-
-
【資料1】島根県大百科事典編集委員会 , 山陰中央新報社開発局/〔共〕編 , 島根県大百科事典編集委員会 , 山陰中央新報社開発局. 島根県大百科事典 : た〜ん 下. 山陰中央新報社, 1982.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I024430651-00 - 【資料2】隠岐の文化財 第19号 隠岐の島町教育委員会ほか
-
【資料1】島根県大百科事典編集委員会 , 山陰中央新報社開発局/〔共〕編 , 島根県大百科事典編集委員会 , 山陰中央新報社開発局. 島根県大百科事典 : た〜ん 下. 山陰中央新報社, 1982.
- キーワード
-
- 佐久間象山
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000262949