レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年12月01日
- 登録日時
- 2011/02/01 11:32
- 更新日時
- 2011/03/23 09:11
- 管理番号
- 山形県-2009-0041
- 質問
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解決
米沢市出身の医師、坪井為春(つぼいいしゅん)について知りたい。一次資料的なものを希望。
- 回答
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資料⑥に坪井為春の書簡が掲載されています。 P388~391
資料⑦は坪井信良より実兄に宛てた書簡です。文中に坪井為春の名が確認できます。また、巻末に坪井家の家系図が掲載されています。
『日本洋学人名事典』(武内博/編著 柏書房/発)より抜粋
坪井為春(つぼい いしゅん) 文政7~明治19(1824~1886)
出羽国置賜郡米沢の郷医大木松翁の長男として生まれる。名を忠益のち仲益といい、芳洲と号した。天保11年(1840)16歳で上杉家侍医堀内忠亮の弟子となり、翌年江戸に上り師の友人坪井信道の深川日習堂に入門した。嘉永元年(1848)信道没後薩摩藩の藩医に任ぜられ、さらには蕃書調所手伝となった。文久2年(1862)に医学所教授となり、明治元年まで勤続した。同11年埼玉県医学校が設立されるや招かれて教頭に任ぜられ翌年同校校長となり、さらに埼玉県立病院長に就任した。明治19年3月30日死去。行年63歳。
- 回答プロセス
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松野良寅氏の著作についてはすでに確認しているとのことだったが、資料の巻末に参考資料が掲載されていないか確認のため、資料①②③④を確認する。参考文献の掲載は確認できなかった。坪井為春の出身が米沢だったので、資料⑤を確認する。市史の該当部分も松野良寅氏による執筆だった。以下、資料①~⑤の掲載部分
資料① P70~74 最後の蘭方医・坪井為春(大木忠益)
資料② P11~28 坪井信道と二人の門人 鈴木千里・大木忠益(坪井為春)
資料③ P18~50 坪井為春をめぐる人びと
資料④ P176~192 近代医学界のパイオニア 坪井為春と樫村清徳
資料⑤ P715~726 医学勤学生と代表的蘭方医
- 事前調査事項
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改名前は大木忠益。号は芳洲。文政7(1824)~明治19(1886)
松野良寅氏の著作についてはすでに確認している。
- NDC
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- 医学 (490 9版)
- 科学史.事情 (402 9版)
- 参考資料
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- 資料①先人の世紀 前編 上杉鷹山公と郷土の先人/松野良寅/1990(YK287/マツ/1)
- 資料②明治の曙 一隅を照らす人々/松野良寅/1985(YK287/マツ)
- 資料③東北の長崎 米沢洋学の系譜/松野良寅/1988(YK402.159/マツ)
- 資料④エッセイ集 ヘルンさん言葉/松野良寅/2001(Y914.6/マツ)
- 資料⑤米沢市史 近世編2/米沢市史編さん委員会編/1993(K274.1/ヨネ/3)
- 資料⑥米沢藩医史私撰/北條元一/1992(YK490.9/キタ)
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資料⑦幕末維新風雲通信 蘭医坪井信良家兄宛書翰集/坪井信良/1978(210.58/ミヤ)
※( )は当館の請求記号です。
- キーワード
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- 坪井為春
- 大木忠益
- 芳洲
- 医師
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000077453