レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20201005
- 登録日時
- 2021/02/06 00:30
- 更新日時
- 2021/02/27 11:41
- 管理番号
- 201545
- 質問
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解決
勝屋勘右衛門茂為に関する資料はありますか。
- 回答
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次の資料に記載がありました。
(1)『佐賀藩の総合研究 正』 藤野 保/編 吉川弘文館 1981
p.646 第40表 「寛永13(1636)年の上級家臣団とその主たる知行地」 17 (勝屋)勝屋勘右衛門茂為 物成高:1000石、知行地:養父、三根
(2)『佐賀県近世史料 第8編 第1巻』 佐賀県立図書館/編 2005
p.27 「葉隠聞書校補 引出」 カノ部 第四 345 御年寄 勝屋勘右衛門茂為 子孫、分家
p.123 「葉隠聞書校補 首巻」 鹿島家之儀、元祖和泉守直朝殿ハ勝茂公第五子也。母高源院殿、元和8(1622)年正月廿一日於三丸出生、勝屋勘右衛門茂為養子と成、寛永12(1635)年茂為死去ニ付~(略)。
p.345 「葉隠聞書校補 三」 勝屋勘右衛門茂為の記載数か所あり。
p.487 「葉隠聞書校補 五」 勝屋新右衛門利重、下村八郎右衛門利充次男にして、勝屋勘右衛門茂為之養子と成、延宝7(1679)年7月15日死、法名心源宗徹、其外四巻目勘右衛門茂為之所に詳なり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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(3)『鹿島藩三代藩主鍋島直朝の生涯』 峰松 正輝/著 2014 P1
勝屋家(茂為)は寛永5(1628)年の佐賀藩上級家臣の中では17位に位置し、知行二千石の極めて重要な立場にいる。しかし、寛永12(1635)年勝茂の娘「伝高院(お市・上杉定勝の妻)}の死に際して殉死し、寛永19(1642)年の上級家臣団25位内から消える。直朝の鹿島入りには、勝茂は24人の家臣の内、勘右衛門の弟伊右衛門弘安・勘右衛門の嫡子弘宣を選んで直朝に随った。これが鹿島勝屋家の始祖である。
- NDC
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- 個人伝記 (289)
- 参考資料
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(1)藤野保 編 , 藤野, 保, 1927-2018. 佐賀藩の総合研究 : 藩制の成立と構造. 吉川弘文館, 1981.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001493990-00 -
(2)佐賀県立図書館 編 , 佐賀県立図書館. 佐賀県近世史料 第8編 第1巻. 佐賀県立図書館, 2005.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007729552-00 -
(3)峰松 正輝/著. 鹿島藩三代藩主鍋島直朝の生涯. 2014.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070855238-00
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(1)藤野保 編 , 藤野, 保, 1927-2018. 佐賀藩の総合研究 : 藩制の成立と構造. 吉川弘文館, 1981.
- キーワード
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- 勝屋勘右衛門茂為
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000293558