レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/06/04
- 登録日時
- 2021/07/02 00:30
- 更新日時
- 2021/08/19 11:53
- 管理番号
- 9712244
- 質問
-
未解決
「児玉愛二郎(児玉七十郎)」と「周布藤吾」について調査しています。
児玉愛二郎の告白により、どちらも袖解橋の変(1864(元治元)年9月25日に山口市の袖解橋近くで井上聞多(井上馨)が襲撃された事件)の犯人であることが判明している人物です。
この「児玉愛二郎」「周布藤吾」の親族(可能なら家系図)や菩提寺について調査をお願いします。
児玉愛二郎については、下記の経歴を確認しています(典拠不明)。
もし調査の過程で★について判明することがあれば、併せてご教示ください。
児玉愛二郎経歴
1841年(天保12年) 山口県萩市で生まれる
実父は、寺内彌次右衛門道貫
(長州藩大組士、二百十石七斗、明治15年8月19日死去)
(萩の常念寺で萩最初の早朝葬儀を催し、墓所は同寺)
何らかの形で、児玉家へ養子入り ★時期
長州藩選鋒隊士
俗論派の藩政府とともに奇兵隊などと大田絵堂で戦闘
選鋒隊が解散後、精鋭隊へ入隊
精鋭隊として幕府の第二次長州征伐で、石州口で戦闘
戊辰戦争で干城隊士として北越戦に従軍
維新後、長州藩の近衛兵隊長として東京入り ★時期と肩書き
帰郷後、山口藩(県)庁に出仕
明治4年頃 宮内省に出仕
明治5年頃 宮内少丞として明治天皇の西国行幸に供奉(随幸私記を残す)
時期不明 宮内権大書記官に任命 ★時期
明治15年 宮内省大書記官に任命
明治22年 宮内省図書頭
宮内省図書館を辞職 ★時期
昭和5年2月13日死去。93歳。自宅は芝区高輪南町44番地
喪主は児玉隼槌
菩提寺は青松寺(港区芝愛宕町)の可能性 ★
- 回答
-
児玉愛二郎(児玉七十郎)および周布藤吾について、参考資料からの情報およびデータベース等、合理的な手段で確認できる内容から判明した事柄について回答いたします。
【 】内は国立国会図書館請求記号です。
書誌事項末尾に◎を付した資料は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開しており、☆を付した資料は同コレクションの国立国会図書館/図書館送信参加館内公開資料です。
1. 児玉愛二郎
1-1. 親族および菩提寺
以下の関係が各資料より確認できました。
また、菩提寺については判明しませんでした。
資料1:実父 寺内弥次右衛門
資料2、3、4:養父 児玉準・準之進・準之勝(記載にばらつきあり)
資料5:養子 児玉隼槌
資料5、6:孫 児玉政介(隼槌の養子)、児玉禎二郎(隼槌の子)
資料5、6:曾孫 児玉雄伍(政介の長男)
資料1:山口県教育会 編『山口県百科事典』大和書房、1982.4【GB8-99】
* p.309「児玉愛二郎」の項に、「父は萩藩士寺内弥次右衛門」とあり。
資料2:樹下明紀, 田村哲夫 編『萩藩給禄帳』マツノ書店、1984.8【GC225-58】☆
* p.233「1076 二百九拾三石 児玉 準 四三 嫡 七十郎」(安政2年の禄高と氏名年齢)「同弐拾五石 児玉 準 五八 未六月七日準隠居七十郎(三二)相続 嫡 隼之進」(明治3年の禄高と氏名年齢)との記載があります。
同資料のp.33には、寺内弥次右衛門の名も確認できます。
資料3:河内山雅郎 著『維新長会志譜 前編』河内山雅郎、2002.7【GB421-G124】
* p.148「児玉七十郎[愛二郎] 大組 二百九十三石 準之進嫡子 干城隊六番小隊長 干城隊精鋭隊指令」
資料4:田村哲夫 編『防長維新関係者要覧』マツノ書店、1995.8【GB13-G14】
* p.43「児玉愛二郎之修 天保11 八組士準之勝嫡子」
なお、同資料には墓所の項目がありますが、愛二郎については記載がありませんでした。
資料5:校友調査会 編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、昭和7【610-164】◎
* コ43のページの兒玉隼槌の項に、「先代愛二郎の養子となり」や「男 禎次郎 明四二、八生」( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/411 )の記載があります。
また、ほぼ同一の内容が人事興信録データベースより閲覧可能です。
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-8986
*コ44のページの兒玉政介の項に、「妻 ウメ 明三〇、四生、東京、工權誓長女」「男 雄伍 大四、三生」( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/412 )の記載があります。
なお、「(前略)大正三年兒玉隼槌の養子となり同五年分れて一家を創立す(後略)」とあることから、政介は分家しているようです(同様の内容が兒玉隼槌の項からも確認できます)。
資料6:『朝日新聞』 1978(昭和53)年4月20日朝刊「故児玉政介氏の告別式」
* 「(前略)告別式は横浜市鶴見区鶴見二ノ一ノ一、大本山総持寺で。喪主は長男、雄伍(ゆうご)氏。」との記載があります。
※聞蔵IIビジュアル(朝日新聞)(当館契約データベース)で検索。
[そのほかの主な調査済資料]
・安藤紀一 [筆写], 萩郷土文化研究会 編『萩藩分限帳 改訂版』萩市郷土博物館友の会、1979.11【GC225-41】☆
* p.192「一〃弐百九拾三石 〃 同 準 倫之進」の記載あり。「〃」および「同」とされている部分を補うと「一高弐百九拾三石 大組 児玉 準 倫之進」となります。
* p.204には、寺内弥次右衛門の名も確認できます。
・藤浪和子 [著]『東京掃苔録 (続日本史籍協会叢書)』東京大学出版会、1982.9【GK13-923】
・森光俊 著『著名人の墓所 : 東京・神奈川とその近県』ストーク、2014.6【GK13-L358】
・飯澤文夫 監修『郷土ゆかりの人々 : 地方史誌にとりあげられた人物文献目録』日外アソシエーツ、2016.1【GB1-L21】
1-2. 宮内権大書記官への任命時期
資料7~9より、権大書記官(権大丞)に任命されたのは明治8年11月から同年12月のどこかであったと推定されます。
資料7:西村隼太郎 編『官員録 明治8年11月改正』西村組出版局、明7-10【14.1-3】◎
* p.81に「少丞 正六位 兒玉 愛二郎」( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779237/81 )とあります。
資料8:西村隼太郎 編『官員録 明治8年12月改正』西村組出版局、明7-10【14.1-3】◎
* p.82に「權大丞 正六位 兒玉 愛二郎」( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779238/86 )とあります。官員録は、国立公文書館デジタルアーカイブ( https://www.digital.archives.go.jp/ )においても参照できる場合があります。
また、明治時代の官吏についての調べ方をまとめたページを参考までにご紹介いたします。
リサーチ・ナビ「公務員(官吏)の人物情報を調べる(戦前編)」( https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-771.php )
資料9より、明治10年8月29日に宮内省の官制が改められた際に、大少丞が廃され、書記官が置かれたことがわかります。
資料9:『明治職官沿革表 職官部 慶応3年12月−明治19年7月』内閣記録局、明19-27【14.7-51】◎
*p.164 「大少丞、(略)ヲ廢シ、書記官、(略)ヲ置き(以下略)」( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784494/102 )とあります。
官制を改める太政官達は、日本法令索引〔明治前期編〕( https://dajokan.ndl.go.jp/ )の詳細検索画面にて、発令年月日を「明治10年8月29日」とし、キーワードを「宮内省」と入れて検索することでも確認できます。
検索結果のうち、〔宮内省中官等廃置改正職制章程ヲ定ム〕とあるものが該当の達であり、国立公文書館デジタルアーカイブの本文情報( https://www.digital.archives.go.jp/item/1386971 )に遷移することも可能です。
そのほか、東京都公文書館情報公開システム( https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/ )で、資料種別をすべて選択し、フリーワード「児玉愛二郎」で検索すると、13件の情報がヒットします。宮内権大書記官として名前が確認できるものもありますので、参考までにお伝えします。
1-3. 宮内省図書頭の辞職時期
資料10より、宮内省図書頭の辞職時期は1895(明治28)年7月24日です。
資料10:『官報』【YC-1】◎ 1895年7月25日( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2946896/1 )
* 「依願免本官 (七月二十四日同) 圖書頭 兒玉愛二郎」とあります。
なお、同年7月26日に宮内省錦鶏間祗候を命じられ(資料11)、1904(明治37)年6月24日にはそれを免ぜられています(資料12)。
資料11:『官報』【YC-1】◎ 1895年7月29日( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2946899/2 )
* 「錦鶏間祗候被仰付(七月二十六日宮内省) 從四位勲三等 兒玉愛二郎」とあります。
資料12:『官報』【YC-1】◎ 1904年6月25日( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949614/2 )
* 「依願錦鶏間祗候被免 従三位勲三等 兒玉愛二郎」とあります。
2. 周布藤吾
周布藤吾の親族、菩提寺等について判明したことはありませんでした。
調査の過程で行動歴の一部について確認できましたので、ご参考までにお知らせします。
2-1. 岩国での行動
資料13~15に、周布藤吾の名が確認できます。
資料13:日本史籍協会 編『吉川経幹周旋記 第二 (日本史籍協会叢書)』日本史籍協会、大正15【210.58-N688k】◎
* p.431 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917628/240
資料14:日本史籍協会 編『吉川経幹周旋記 第三 (日本史籍協会叢書)』日本史籍協会、大正15【210.58-N688k】◎
* p.355 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917636/195
* p.402-403 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917636/219
資料15:維新史料編纂会 編『維新史料綱要 巻6』維新史料編纂事務局、昭和16-18【210.61-I79ウ】◎
* p.18 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041914/15
* p.156 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041914/84
* p.169 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041914/90
上記については、東京大学史料編纂所のデータベース( https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller )の横断検索で「周布藤吾」「撰鋒隊」というキーワードで確認できた結果から合理的な範囲で確認しています。
当該データベースから、周布藤吾の名や当時の事情が資料15『維新史料綱要』に掲載されていることがわかり、そこから『吉川経幹周旋記』(資料13、14)を参照しています。
[そのほかの主な調査済資料]
『大日本維新史料稿本マイクロ版集成 東京大学史料編纂所所蔵』丸善、[1995]【YD1-379】
2-2. 周布政之助との関係(周布公平関係文書)
貴館の質問中に周布政之助の長男との情報の記載があり、資料16および資料17より周布政之助の息子が周布公平であることがわかるため、資料18を確認しましたが、周布藤吾の名は確認できませんでした。
資料16:『周布政之助伝』東京大学出版会、1977.12【GK131-36】
* 下p.771「周布氏略系圖」あり。
資料17:霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996.9【GB43-G33】
* p.775「周布兼英」(資料中「兼」の字は旧字です。)
資料18:周布公平関係文書( https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/sufukouhei.php )
周布公平関係文書目録( https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_sufukouhei.pdf )の資料番号573~581のうち、兄弟の記述がある576、577、578、581を確認しました。
資料16と資料18の目録資料番号592の備考などと合わせ、政之助の息子で繁澤家に養子に出した人物が公平の実兄「繁澤明克(昌三郎)」であることがわかりますが、周布公平の血縁者(兄)としての藤吾の名は確認できませんでした。
※ウェブサイトの最終アクセスは2021年6月4日です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
児玉愛二郎に関しては、聞蔵Ⅱビジュアルで確認できた葬儀の広告より、喪主をつとめた児玉隼槌が愛二郎の子であることがわかっています。(朝日新聞1930(昭和5)年2月15日朝刊8面)
人物事典の類に大まかな経歴は出てくるのですが、その他の親族や菩提寺は確認できませんでした。
周布藤吾に関しては、親族や菩提寺に関する資料が何も見当たりません。経歴から辿ろうにも、袖解橋の変にまつわること以外は、石州口の戦いで負傷している(『山口県史 史料編幕末維新4』p.742)ことしか確認できませんでした。
周布政之助の長男という情報がインターネットで散見されたため、政之助の家系図や周辺を調査してみましたが、近親者に「藤吾」の名前は確認できません。
また、『世外井上公伝 第1巻』には袖解橋の変の犯人として「周布藤吉」の名前が挙がっています。この人物について児玉愛二郎が語ったとされる人柄の記述もあるのですが、大内文化まちづくりのHP( http://oouchibunka.jp/yamaguchicity_histry/bakumatu_butai/07.html )には「周布藤吾」の名前で同様の記述があります。「周布藤吾」と「周布藤吉」はおそらく同一人物と思われるのですが、「藤吉」が誤字なのか別名なのかは不明です。
以下、調査した資料です。
●児玉愛二郎
『現代防長人物史 人』井關九郎/選 發展社(1917)
『近世防長人名辞典 増補』吉田祥朔/著 マツノ書店(1976)
『山口県人物・人材情報リスト 2009』日外アソシエーツ株式会社/編 日外アソシエーツ(制作)(2008)
『防長維新関係者雅号便覧』田村 哲夫/編 マツノ書店(1997)
『川中風土記』徳見光三/著 長門地方史料研究所(1967)
『山口県百科事典』山口県教育会/編 大和書房(1982)
『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」 上』宮内庁三の丸尚蔵館/編 宮内庁(2015)
『幕末維新大人名事典 上巻』上巻 安岡昭男/編 新人物往来社(2010)
『萩先賢忌辰録』田中助一/編 萩市仏教団(1970)
『萩藩給禄帳』田村哲夫・樹下明紀/編 マツノ書店(1989)
『世外井上公伝 第1巻』井上馨侯伝記編纂会/著 内外書籍(1933)
『随幸私記』児玉愛二郎/著(1893)
●周布藤吾
『山口県史 史料編幕末維新4』山口県/編 山口県(2010)
『世外井上公伝 第1巻』井上馨侯伝記編纂会/著 内外書籍(1933)
HP「大内文化まちづくり」( http://oouchibunka.jp/yamaguchicity_histry/bakumatu_butai/07.html )
HP「明治維新新策源地山口市」( http://ishin150-yamaguchi.com/spot012/ )
※以下記載なし
『幕末維新大人名事典 上巻』安岡 昭男/編(2010)
『日本歴史大辞典 6』日本歴史大辞典編集委員会/編(1971)
『萩藩諸家系譜』岡部忠夫/編著(1999)
『偉人周布政之助翁伝』妻木忠太/著 村田書店(1984)子は「公平」のみ記載
『周布政之助伝 上・下』東京大学出版会(1978)
『周布政之助資料図録』山口県教育委員会/編(1978)
家系図には、養子「留槌/兼徳」(実子が生まれて元の家に返す)実子1「男」(ハンザワ家へ養子にだす)
実子2「金槌/公平」と記載
- NDC
-
- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 人文(レファレンス)
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000301058