レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年11月16日
- 登録日時
- 2012/03/13 10:49
- 更新日時
- 2012/06/03 10:58
- 管理番号
- 埼熊-2011-182
- 質問
-
未解決
熊谷の村岡を開発した村岡良文氏について以下の事項を知りたい。
1 村岡氏が後に兵庫県丹波に移動するが、そこまでの動きを知りたい。
2 承久の乱(1221年)の際、村岡氏が足利尊氏(1305-1358)に同行したのか知りたい。
- 回答
-
質問1、2ともに回答に結びつく資料は確認できなかった。調査に使用した以下の資料を紹介した。
〈村岡良文〉を調査する
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
p786〈村岡良文(むらおかの よしふみ)〉の項に、「生没年不詳。平安時代中期の軍事貴族。」
「本拠地の村岡については、熊谷市と藤沢市の両説があるが、前者の村岡の地名は、良文5代孫権五郎忠通が移住したことによりなったとする伝承も残る。」とあり。
『熊谷人物事典』(日下部朝一郎編著 国書刊行会 1982)
p353-355〈村上五郎良文〉の項に、「本名。平良文。平安時代の武人。桓武平氏の祖高望王の五男で陸奥守、鎮守府将軍を歴任し大里郡村岡に住み、地名をとって村岡五郎良文と称した。」とあり。
『埼玉苗字辞典 4(ハ-ワ)』(茂木和平著 茂木和平 2008)
p7618〈桓武平氏村岡氏〉に「常陸国結城郡村岡村より起る」とあり、発祥を相模國・武蔵国とするのは誤りとある。」
『埼玉苗字辞典 3(ス-ノ)』(茂木和平著 茂木和平 2007)
p5142-5146〈秩父〉に「7 妙見信仰と良文」「8 橘姓の良文」あり。
『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会編 埼玉県教育委員会 1968)
p143〈村岡館〉の項に、村岡氏の移動については記述なし。
『新編埼玉県史 資料編 7(中世 3) 記録』(埼玉県編 埼玉県 1985)
p927「源威集」に、前九年の役(1051-1062)の記述に村岡良文の名あり。
『相模三浦一族とその周辺史』(鈴木かほる著 新人物往来社 2007)
p14-15に系図あり。村岡良文と坂東八平氏「平高望王の五子・村岡五郎良文が坂東八平氏の祖である。」とあり。
『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』(石井進著 平凡社 1987)
p91-92に、平良文から続く秩父氏の系図と解説あり。
『坂東武士団の成立と発展』(野口実著 弘生書林 1982)
平良文の名は散見されるが、質問に該当する記述なし。
『相模武士 全系譜とその史蹟 1』(湯山学著 戎光祥出版 2010)
p24-25 平氏系図あり。
p29-35「平良文と武蔵国」の節あり。
p36-51「鎌倉党の祖・平良文が屋敷を構えた村岡」の章あり。
『武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる』(安田元久著 有隣堂 1984)
p18- 村岡五郎良文の紹介あり。〈秩父氏〉の項で、良文の子孫について触れている。
『坂東武者』(竹村紘一著 叢文社 2006)
p22 「坂東八平氏の粗・村岡五郎良文」 の項あり。
引用文献に『村岡史誌』、『千葉家世紀』(千葉大系図 : 附千葉家世紀 国会所蔵あり)、『源平闘諍録』
『日本の歴史 6 武士の登場』(中央公論社 1984)
p20-〈忠常の系譜〉の項に、平良文の記述あり。
平良文と三つの村岡として、下総国相馬郡(茨城県結城郡千代川村)・武蔵国大里郡(熊谷市大字村岡)・相模国鎌倉郡鎌倉七郷(神奈川県藤沢市)を取り上げている。
p21より良文の生没年が886-952年とわかる。
『中世の熊谷の武士たち』(熊谷市立図書館美術、郷土係編 1988)
以下に、該当の記述なし。
p180-「中歳の熊谷武士・村岡五郎平良文公」(村岡武)
p182-「中世の熊谷の武士村岡氏について」(村田茂雄)
p193「熊谷と武蔵武士参考文献」(野口泰助)
『村岡一族』(日本家系協会出版部 1974)
村岡姓については、「平良文の相模国高座郡村岡郷を領するに因みて」とし、諸系図あり。
系を下るとき、異なる家号とする中で、村岡を伝える各地の村岡氏の紹介に「良文五世孫の権五郎忠通は武蔵国大里郡なる村岡村に住し、その後裔かといふ村岡式部の名、成田分限帳に見ゆ。」とあり。
村岡氏の系図を調査する
『桓武平氏良文系全系図』(千葉琢穂編著 展望社 1984)
p35〈平良文〉の項あり。
p36〈忠通・村岡小五郎平忠通〉の項あり。「鎮守府将軍。平良文の次男。相模国郡郷を領す。」とあり。
『系図纂要 8 上 平氏』(岩澤愿彦監修 名著出版 1995)
p185-188「平朝臣姓 村岡」系図あり。それぞれの詳しい来歴は、記述なし。
『吾妻鏡人名索引』(御家人制研究会編 吉川弘文館 1992)
p530〈村岡姓〉は、次の記述あり。
「村岡五郎 建保1.5.6」「村岡三郎 建保1.5.6」「村岡四朗 建保1.5.6」「村岡太郎 建保1.5.6」「村岡富士五太郎 文応1.4.18」「村岡藤四郎 文応1.4.18」「村岡弥五郎 文応1.4.18」「村岡弥三郎 康元1.8.16」
『吾妻鏡 現代語訳 7 頼家と実朝』(五味文彦編 本郷和人編 吉川弘文館 2009)
p204に〈村岡五郎〉ほかの名あり。注に「生没年未詳。和田合戦で捕虜となる。相模の武士」とあり。
『千葉氏 鎌倉・南北朝編』(千野原靖方著 崙書房出版 1995)
p14-16〈村岡五郎良文〉の項あり。
『埼玉史料辞典』(埼玉新聞社編 1968)
p190-191に、恒武平氏、秩父氏系図あり。
足利尊氏文書を調査する
『足利尊氏文書の研究 4 日録・資料篇』(小松茂美著 旺文社 1997)
p241-「「足利尊氏文書」を中心とする南北朝時代人物一覧」あり。
〈村岡〉は〈村岡藤内兵衛入道〉〈村岡武藤三郎入道〉の2名。
村岡に関係する地誌より
『大里郡郷土誌』(下田江東編 聚海書林 1983)
p49「平良文は武蔵守に任ぜられ、村岡の地に居住し、吉岡村大字村岡は旧址。常に数百騎の家人を養い、良文の子孫は繁栄していわゆる関東八平氏となり」とあり。
『大里村史 通史編』(大里村史編纂委員会編 1990)
p254-255 「付)村岡五郎良文」あり。
「良文の子孫たちは、坂東各地とくにその南半部に強大な根をはり、やがて源氏のこの上ない家臣として中世の坂東をかけめぐった。」とあるのみ。
埼玉関係のデータベースを〈村岡良文〉で検索する
《埼玉関係人物文献DB》をキーワード〈村岡良文〉および〈平良文〉で検索。〈平良文〉の名前は見られるが、質問に該当する記述なし。
『新編埼玉県史 通史編1』(埼玉県編 埼玉県 1987)
p637「源宛(あつる)は、『今昔物語』によると、村岡五郎良文と合戦におよんだ」
『新編埼玉県史 通史編2』(埼玉県編 埼玉県 1988)
p739「桓武平氏の流れを汲む平良文の子村岡次郎忠頼が武蔵国に移住し」
p1013「良文流平氏が秩父土着過程において」
『北本市史 1 通史編』(北本市教育委員会市史編さん室編 北本 北本市教育委員会 1994)
p386-387「村岡五郎は桓武平氏の後裔で高望王の子、後に将門の乱を起こした平将門の叔父にあたる。」
《埼玉関係雑誌記事DB》を〈村岡良文〉および〈平良文〉で検索。
以下の論文に、質問に該当する記述なし。
小林雅治著「平良文公について」(『熊谷市郷土文化会誌 第33号』p18-19 熊谷市郷土文化会 1978.11)
「平将門が反乱を起こした当時には陸奥の国のアイヌ人の反乱の鎮圧に当っておって」
村上茂雄著「村岡五郎平良文の生涯」(『熊谷市郷土文化会誌 第47号』p17-25 熊谷市郷土文化会 1992.11)
《WHOPLUS》を〈平良文〉で検索する
〈経歴情報〉に次の記述あり。
「生没年不詳。京都で衛門府の役人か検非違使を務めたと思われ、従五位上まで昇る。熊谷市村岡に住み、村岡五郎と称した。(以下略)」
※京都にいたこと、平将門の乱での動静は不明とされている。
《東京大学史料編纂所DB》の《平安遺文フルテキストDB》を〈平良文〉で検索する
『平安遺文 古文書編 6 永治元年(2446号)-平治2年(3046号)』(竹内理三編 東京堂出版 1963)
p2187-2088「2586 下総国平常胤寄進状」あり。
(久安2年8月10日衣川常陸国堺 右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経 既収 2586 櫟木文書 6/2187)
『平安遺文 古文書編 7 永暦元年(3047号)-安元3年(3801号)』(竹内理三編 東京堂出版 1963)
p2522-2523「3139 下総権介平常胤解案」あり。
(永暦2年2月27日右、謹検案内、当御厨者、是元平良文朝臣所領、其男経明其男忠経其 既収 3139 櫟木文書 7/2522 )
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 村岡 良文(ムラオカ ヨシフミ)
- 熊谷市-歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000103511