レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 近畿大学中央図書館 (3310037) | 管理番号 (Control number) | 20060704-1 | |||||
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事例作成日 (Creation date) | 2006/07/05 | 登録日時 (Registration date) | 2006年07月05日 12時00分 | 更新日時 (Last update) | 2006年07月07日 10時45分 | |||
質問 (Question) | 写真家ベアトが長崎を訪れたのはいつか? | |||||||
回答 (Answer) | 下記の文献に情報があった。 『幕末明治横浜写真館物語』 斎藤多喜夫著 吉川弘文館 2004 (歴史文化ライブラリー 175) p.76 「では、ベアトはいつ長崎を訪れたのであろうか?後述のように、一八六四年八月二十九日から十月一日までは英仏蘭米四ヵ国連合艦隊の下関砲撃に従軍しており、十一月には鎌倉に赴き、殺害されたボールドウィン少佐とバード中尉に会っているので、長崎行が可能なのは六三年末から六四年前半にかけてのことになる。」 斎藤多喜夫 「横浜写真小史再論」 『外国人カメラマンが撮った幕末日本』 [F. ベアト写真] ; 横浜開港資料館編 明石書店 2006.4 (F. ベアト写真集 2) 所収 p.113 「中国や日本の開港場の間ならば自由に往来することができた。ベアトに長崎の写真が多いのはそのためである。先に触れたパーカーの作品を含むアルバムには、長崎の写真を含めて1864年の年次を含む書き込みがある。したがって、それ以前に長崎を訪れたことは明らかである。後述のように、1864年8月から10月までは英仏蘭米4ヵ国連合艦隊の下関砲撃に従軍しており、11月には鎌倉に赴いているので、長崎行が可能なのは63年末から64年前半にかけてのことになる。」 | |||||||
回答プロセス (Answering process) | CiNiiで小山正文「鶴岡八幡宮の幕末古写真」を見つけ、その論文において『幕末明治横浜写真館物語』が紹介されていた。 | |||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||
備考 (Notes) | 斎藤多喜夫『幕末明治横浜写真館物語』により、Felix(フェリックス)は俗称、Felice(フェリーチェ)が正式のファースト・ネームであることが明らかにされた。(p.61) | |||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 質問者区分 (Category of questioner) | |||||
登録番号 (Registration number) | 1000029355 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |