レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年7月20日
- 登録日時
- 2013/07/20 14:56
- 更新日時
- 2013/07/22 14:02
- 管理番号
- 039
- 質問
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尼崎市と西宮市の間で市域の一部を交換をしたことがあると聞いている。
いつごろ、どういう理由で、どの土地を交換したのか?
- 回答
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昭和44年(1969)4月1日に、尼崎市域でありながら武庫川西岸の飛び地である田近野(たじかの、西昆陽-にしこや-の小字)と、同じく西宮市域で武庫川東岸の飛び地である平左衛門町が交換され、それぞれ西宮市田近野町、尼崎市平左衛門町となりました。
武庫川西岸の田近野は、中世には武庫川の東西両岸に荘域を有したと考えられる荘園西小屋荘(にしこやのしょう)のうちの田近という集落でした。ところが16世紀初め頃の水害により全村が流出したため、住民は西昆陽に移住し、田近野は西昆陽の所属地となったと伝えられています。
昭和44年当時、田近野は広さ約18万7,600㎡、113世帯440人が居住していました。児童は隣接する宝塚市の小学校に通学し、買い物は西宮市仁川方面という状況でしたが、行政上田近野を管轄する尼崎市武庫支所は武庫川対岸にあり不便であることなどから、昭和38年には住民が西宮市への編入を陳情しています。
一方、平左衛門町は、田近野より約6キロ下流の武庫川東岸に位置しています。江戸時代、武庫川河口に丸島という島状の土地があり、東岸の西新田と西岸の鳴尾が草刈り場として共同利用していました。この丸島を農地として開発することになり、天保4年(1833)に同地を東西に二分し、それぞれ西新田と鳴尾に属することとしました。開発者のひとりの名を取って平左衛門新田と命名されたこの開発地は、西新田所属地と鳴尾所属地に分かれたまま現代に至ります。このため、鳴尾所属地であった土地が、武庫川東岸であるにも関わらず西宮市平左衛門町となり、昭和44年当時は広さ約16万㎡、8世帯22人が居住していました。
昭和39年に兵庫県が平左衛門町地先の工業用埋立地造成計画をたてた際、埋立地の帰属が尼崎・西宮両市の間で問題となり、県が両地区の交換を提案して二市をまじえた協議が始まります。その後、尼崎・西宮・伊丹・宝塚の四市が計画する武庫川広域下水道の終末処理場がこの埋立地に予定されたため、帰属問題の解決を迫られ、両市は交換を合意するに至りました。
これら一連の経緯は、当時の行政刊行物や新聞記事、『尼崎市史』等の参考文献により調べることができます。
- 回答プロセス
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1 市域交換経緯等を記録した尼崎市の行政刊行物
◆『市報あまがさき』第441号(昭和44年1月20日)
「西宮市と飛地を交換 尼崎「田近野」と西宮「平左衛門町」という記事を掲載
交換に至る経緯・事情等を記述
◆『尼崎市事務報告書』
昭和43年版 総務局企画部企画課 「2 市の境界変更事務(西宮市との境界)」
昭和44年版 企画調整局企画部企画課 「2 市の境界変更事務(西宮市との境界)」
2 新聞記事
◆『朝日新聞』昭和38年11月14日朝刊 尼崎版
「"西宮市へ編入を"とび地の田近野地区が陳情」
3 交換される地区の歴史について記した参考文献
◆『尼崎市史』第2巻第5章
第3節2「近世初期の農村支配」 小見出し「武庫川の西の尼崎市域田近野」「丸島の分割-平左衛門新田」
第5節3「新田開発と農業の発達」 小見出し「難航する丸島開発願い」「ついに開発-丸島平左衛門新田」
◆『尼崎地域史事典』/Web版尼崎地域史事典"apedia"
項目「田近」「西小屋荘」「平左衛門新田」
- 事前調査事項
- NDC
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- 地方自治.地方行政 (318 9版)
- 参考資料
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- 『市報あまがさき』第441号 昭和44年1月20日 (逐次刊行物)
- 『尼崎市事務報告書』昭和43年版,昭和44年版 (逐次刊行物)
- 『朝日新聞』昭和38年11月14日朝刊 尼崎版 (逐次刊行物)
- 『尼崎市史』第2巻 尼崎市 昭和43年発行 (当館請求記号 219/A/ア-2)
- 『尼崎地域史事典』 平成8年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
- キーワード
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- 兵庫県尼崎市
- 兵庫県西宮市
- 田近野
- 平左衛門町
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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Web版 尼崎地域史事典"apedia"
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000134092