レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年01月04日
- 登録日時
- 2009/02/04 16:27
- 更新日時
- 2018/03/07 16:54
- 管理番号
- 9453
- 質問
-
解決
藤目城について知りたい。(1)築城年(2)城の名前の由来(3)最近の発掘調査
- 回答
-
1 香川県観音寺市粟井町の藤目城の築城年
「香川県中世城館跡詳細分布調査報告 平成14年度」の「藤目城跡」該当箇所(322~325頁)には、
「古今讃岐名勝図絵」をもとに、城があった時期を天正年間(1573~1592)とし、築城年についての
厳密な記述はしていない。
同書を作成する際には、城館の存在に言及する文献についても複数調査しているようなので、
今のところ、藤目城の正確な築城年は不明であると思われる。
なお、同書「仲南藤目城跡」該当箇所(284頁)には、「文献上の藤目城をどの城跡に比定地すべきか
については、異同があり、結論が出ていない」としている。
2 藤目城の城主は「斉藤」であるのに、なぜ「斉藤城」でなく、「藤目城」なのか
次の資料に関連する記述があった。
(1)「角川日本地名大辞典 37(香川県)」(角川日本地名大辞典編纂委員会/編
角川書店 1985年発行)
藤目城跡の項(703頁)の冒頭部分に、「観音寺市粟井町竹成の藤目山(136m)にある
戦国期の斉藤氏山城跡」としている。
(2)「南海通記 巻之13〜17」(香西成資/著 香川県歴史博物館蔵本を1999年に電子複写)
江戸時代前期に、香川郡佐料出身の軍学者香西成資(こうざいしげすけ)が、細川氏時代から
天正年間(1573~1592)の争乱、その他の軍談を経験者から聞き、また自らも研究して四国の
事跡をまとめた「南海通記」の巻13に、「藤目城ハ那珂郡真野郷七ヶ村ノ内ニ本目新目藤目山脇トテ
阿波ノ大西邑ニ隣シテ七里ノ山越也」「斎藤氏ハ細川家ノ時ヨリ氏城地ヲ賜テ世々相続セリ」との
記述がある。
「南海治乱記 中(長曽我部元親の四国統一)」(香西成資/原著 伊井春樹/訳 教育社 1981年発行)では、
この箇所を、「この藤目城というのは、那珂郡真野郷七か村の中に本目(仲多度郡仲南町本目)・新目・藤目・山脇といって、
大西の地に隣接した七里の山道を越えた所に位置する。」「藤目の城主斉藤氏は細川家のとき以来、この地をいただき、
代々相続してきた。」(160頁)と訳している。
(3)「藤目城-幻の激戦地」(秋山吾者/著 1996年発行)
私見「仲南藤目城説」の中で、城名について、次のように記述している。
「城名「藤目」これは本目・新目に対して斎藤の姓である「藤原」に因んだものであった」(36頁)
同書「仲南城山周辺図」(34頁)に、本目・新目の地名が記している。
3 藤目城の最近の発掘調査と報告書の有無
(1)「香川県中世城館跡詳細分布調査報告 平成14年度」
(香川県教育委員会/編 香川県教育委員会 2003年発行)
「藤目城」該当箇所(322~325頁)は、平成14年の試掘調査、平成13年踏査をもとに、
「仲南藤目城跡」該当箇所(284頁)は、平成12年踏査をもとに記述している。
(2)「青塚遺跡試掘調査報告書・藤目城跡確認調査報告書-観音寺市埋蔵文化財調査事業報告書」
(観音寺市教育委員会/編 観音寺市教育委員会 2007年発行)
藤目城跡確認調査(6~7頁)、藤目城確認調査記録写真(9頁)が該当箇所。
確認調査の実施時期は、平成18年9月25日から10月19日で、土器などの出土が
あったことを記している。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 四国地方 (218 8版)
- 参考資料
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- ・「南海治乱記 : 一七巻」http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950645 (※国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
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香川県教育委員会 編. 香川県中世城館跡詳細分布調査報告. 香川県教育委員会, 2003.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004125127-00
- キーワード
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- 藤目城
- 香川県
- 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- 城跡--香川県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000051368