レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年07月08日
- 登録日時
- 2016/07/08 11:59
- 更新日時
- 2016/12/15 11:50
- 管理番号
- 2015-10
- 質問
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解決
愛媛県今治市の「波止浜」の地名の由来を知りたい。事前調査では、塩田の汐止めのための堤防があったことに由来するように思われるが、それを裏付けるような資料があれば、見てみたい。
- 回答
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以下の資料に関連の記述があった。
【資料1】「天和三年(一六八三)正月十一日地祝の日をえらんでいよいよ工事に着手した。この築造中で最も重要であり、また難工事であったのは南北の波除堤防二百七十間の潮留である。南方金子よりの堤防工事は佐賀兵左衛門が、また地方(今の宮の下)よりの堤防工事は九兵衛が指導をして工事は着々と進んだ。三月九日いよいよ両堤防を合して潮留をする。当日は前記三郡の外、領外よりの出夫もあり、合わして千八十三名の人夫によって完全に両堤防はつながり、最後の所に生牛一匹を波方村より牽いてきて、これを人柱の代わりとして生き埋めにし、その上に松を植え小さい祠を建て、これを汐止明神として崇め祭ることとなった。」(p35)
【資料2】「波止浜塩田については森光繁(一八九一~一九七六)が『我が郷土』・『波止浜塩業史』・『なみかた誌』などに研究し発表している。」として森光繁が参考にした『松山叢談 第五上』の関連部分を引用しているほか、「天和三年三月九日牛一頭ヲ生埋メ、信カヲ以テ始メテ築止ノ難工事ヲ完成セリ、因テ此地二汐止明神ノ小祠ヲ建ツ今ヲ去ル事二百七十年前ナリ、波止浜茲ニ生ル。」とある長谷部九兵衛記念碑の碑文も引用している。
【資料3】「波止浜」の項目で「地名は天和三年(一六八三)波止浜塩田の汐止めの波止(はと)(堤防)の完成による。」(p330)と書かれている。
なお、以下のような説も見つかった。
【資料4】「波止の名はハセ(長谷)より起ったものであるが口碑によれば昔大和の長谷の人ここに来り住したる故かく称すと言っている。」(p93-94)
【資料5】本資料に収録されている「波止浜郷土誌提要」(明治末から大正初期にかけての発刊と思われる)の「第二編 歴史 (十)大字区画」の項に「各部落名称ノ由来」として、
「(ニ)波止、土師臣ノ住ミシ処ナリト云フ、国分寺ヲ建立セシ時各地ヘ土偶ヲ造ル土師ノ臣ヲ遣シタリト云フ。
又曰ク此地古来長谷トモ云ヒタルガ入海ヲ堰キ止メタルヨリ「ハセ」音近キ波止ヲ用ヒテ波止浜トセリト。
「ハセ」雄略天皇ノ御名、皇子タラレシ時大泊瀬ト申サレシカバ御記念ノタメ「ハセ」ノ名ヲ各地ヘ遣サレシナリ大和ノ長谷モ此例ナリ。」とある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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データベース「えひめの記憶」によると「集落は商業集落の波止町と、塩田集落の浜分に分かれていたが、(略)波止町と浜分が合併し波止浜の地名が誕生したのは天明元年(一七八一)である」とある。
『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』(角川書店)によると、「地名は、波止(堤防)の完成に由来する。」とある。
- NDC
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- 日本 (291)
- 参考資料
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- 【資料1】『波止浜塩業史』(森光繁/編集 波止浜興産 1968年)<当館請求記号K669/2>
- 【資料2】『愛媛県史 地誌 2 東予西部』(愛媛県史編さん委員会/編集 愛媛県 1986年)<当館請求記号K200/31>
- 【資料3】『愛媛県百科大事典 下』(愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室/編集 愛媛新聞社 1985年)<当館請求記号RK290/63/2>
- 【資料4】『わが郷土』(森光繁/著 波止浜町(愛媛県) 渦潮社 1939年)<当館請求記号K292.1/4>
- 【資料5】『今治郷土史 第8巻 今治地誌集 資料編 近・現代3』(今治郷土史編さん委員会 今治市役所 1987年)<当館請求記号K221/14/8>
- キーワード
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- 波止浜(はしはま)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000194461