レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年05月06日
- 登録日時
- 2017/03/14 16:14
- 更新日時
- 2017/06/07 15:51
- 管理番号
- 埼熊-2016-144
- 質問
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解決
長野県の松代城について、本丸等の建物が失われた経緯が知りたい。
- 回答
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以下の資料に関連の記述があり、これを紹介した。
『長野県史 美術建築資料編建築 [1] 解説』(長野県編 長野県史刊行会 1990)
p172「12 松代城遺構(新御殿)」に「松代城内の諸建築は、明治四年の廃藩後、明治五年から八年にかけて取壊され、また花の丸御殿は明治六年に焼失した。堀もすべて埋められ、敷地は士族に払い下げられた。現在松代城の面影をのこすものは、つぎに述べる新御殿のほかは、真田家によって買い取り保存された本丸の石垣のみである。」とあり。
『長野県史 通史編 第7巻 近代 1』(長野県編 長野県史刊行会 1988)
p78「城郭・城地の処分」に「廃城ときまった松代城は五年五月、第二分営の乃木稀典がうけとった。(中略)城郭は(中略)取りこわされた。これは大蔵省の仕事で、旧藩士を優先に入札で払い下げる方針をたてたが買手がなく、おおかたは民間に払い下げられた。(中略)ちなみに、六年十二月長野県から大蔵省に報告した払下げ見積もりは、松代城(土地のみ、以下同じ)六三一円余、(中略)松代城でわずかにのこっていた花の丸も、水内郡権堂村(長野市)の貸座敷に使われることがきまると、旧藩士の放火といわれる火災で六年十月焼失してしまった。」とあり。
- 回答プロセス
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1 長野県史を確認する(回答資料)
2 インターネット情報を調べる
《松代城跡 真田宝物館》(http://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=7 真田宝物館)
「武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。江戸時代、真田氏が松代藩主となると、松代城を中心に真田10万石の城下町が発展しました。明治の廃城にともない建物が壊されたため、長い間石垣を残すのみでしたが、1981(昭和56)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定されました。その後、長野市により環境整備工事が行われ、2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元されました。」とあり。
ウェブサイトの最終アクセス日は2016年5月6日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 9版)
- 参考資料
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- 『長野県史 美術建築資料編建築 [1] 解説』(長野県編 長野県史刊行会 1990)
- 『長野県史 通史編 第7巻 近代 1』(長野県編 長野県史刊行会 1988)
- キーワード
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- 松代城
- 長野県-歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 歴史
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000211643