レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/07/30
- 登録日時
- 2021/09/03 00:30
- 更新日時
- 2021/09/03 00:30
- 管理番号
- 6001051252
- 質問
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解決
『ペリー艦隊日本遠征紀』(万来舎 2009.4)に6歳の子供を乗せるのがやっとの小さな汽車に実際に乗った日本人が出てくる。どういう人物だったか知りたい。
- 回答
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次の資料から、質問の人物は河田迪斎(通称は八之助)という人物だったことがわかった。
・『阿部正弘と日米和親条約:広島県立歴史博物館開館15周年記念 (広島県立歴史博物館展示図録 第31冊)』(広島県立歴史博物館 2004.4)
p.84-85に「蒸気車が運転された三日後の二月二六日、これに乗ってみたいという幕府の役人が現れた。林大学頭の家塾長でアメリカの使節応接掛の任に当たっていた河田八之助興(号は恵迪斉(本文ママ))であった」とあり、またその列車について、『ペルリ提督日本遠征記』の記述を引用し「文字通りに読めば、客車は長さ、高さともに三m以上あったものの、車内に入るのは子供でなければ困難だったので、やむなく河田八之助興は屋根にまたがった」とある。
この河田八之助がどのような人物であったかについては以下の資料に記載があった。
・『明治維新人名辞典』(日本歴史学会/編 吉川弘文館 1981)
p.310
「河田迪斎」「文政三年一五歳の時、伊予の近藤篤山に学び、同八年二〇歳で江戸に出て尾藤二州の門に入り、昌平黌に学んだ。また佐藤一斎の門に往来し、一斎に見込まれ、天保二年、その八女を娶った。のち一斎が幕府の儒者となるに及んで林家の塾頭となり、名声大いにあがった。安政元年米使ペリー再航するや、儒役林韑に属して条約文を草し、後にしばしば上書して鎖国を守る時勢でない旨を論じた。翌二年林家塾頭より儒者に召出され、禄二〇〇俵を賜わった。年五四で没」
具体的な生涯等の情報については以下の資料に詳しい、
・『善通寺市史 第2巻』(善通寺市立図書館編 善通寺市 1988.10)
p.680-688 河田迪斎
[事例作成日:2021年7月30日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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- ペリー艦隊日本遠征記 下 ペリー∥[著] 万来舎 2009.4 (177-178)
- 阿部正弘と日米和親条約 広島県立歴史博物館 2004.4 (84-85)
- 明治維新人名辞典 日本歴史学会∥編 吉川弘文館 1981 (310)
- 善通寺市史 第2巻 善通寺市立図書館編 善通寺市 1988.10 (680-688)
- キーワード
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- ペリー提督日本遠征紀(ペリーテイトクニホンエンセイキ)
- 河田八之助(カワダハチノスケ)
- 河田迪斎(カワダテキサイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000304175