レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20160907
- 登録日時
- 2018/12/28 00:30
- 更新日時
- 2018/12/28 12:57
- 管理番号
- 1002790
- 質問
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解決
石野径一郎氏が、ひめゆり学徒隊の悲劇を知った経緯および小説「ひめゆりの塔」を執筆することになった経緯について知りたい。
- 回答
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①
『私の戦後史 第9集』(沖縄タイムス社∥編・刊、1986.3)
p123-124 「石野径一郎」(p101-131)の項目で、「小説「ひめゆりの塔」は、宗教家の大家、比屋根安定教授がキリスト信者ゆえ特に帰郷を許されて持ち帰ったメモをヒントに、私が筋や構想のプロットを自由に組みたてて書いた作品である。短い手記を拝見し、小説に大事なプロットが脳裏に明滅した。というのは、私はひめゆり部隊の先輩たちを「教生の先生」と仰いだ、安里小学校で育った生徒だからである。…比屋根先生と秘書役の岩原盛勝氏が、敗戦後の昭和二十四年に、敗残の郷里に渡島を許されて渡り、あたかも糸満教会の牧師、與与城勇氏から託された手記を手渡して「石野さん、これを参考に沖縄の悲惨を訴えて下さい」と懇望された。何の用紙か忘れたが、何枚かの小さいメモだった。目を通した私は、知りあいの宝文館に行き編集長の花村奨氏に話を持ちかけると「『令女界』に頂きましょう」「どうぞ連載で願います」と話は即座にきまった。私は女子師範の付属、安里小の卒業だから多くの「教生の先生」に接しており、小説に大切なプロット(筋と構想)や人間関係にはまず自信がある。」の記述がある。
②
『ひめゆりの国』(石野 径一郎∥著、わせだ書房新社、1969.9)
p226-227 「その頃、クリスチャンの比屋根安定先生と、その秘書役としての岩原盛勝氏がはじめて沖縄への渡島を許されたときいた。帰京されると比屋根先生は岩原氏を通じて糸満教会の与那城牧師のかかれた短文を私に渡され、この悲劇をもとに沖縄の苦悩を描いて天下に訴えてほしいとのご連絡を下さった。私は一読して胸にこたえた。一晩考えて翌朝宝文館をたずね、花村編集長にそれを見せて話したところ即座に『令女界』の連載がきまった。しかし大きな不安があった。私は女子師範の附属に三か年在学したので、師範や第一高女は私なりに雰囲気を知っていた。「教生の先生」を通して人物はかける。しかし沖縄の戦はどうすれば書けるか。それからの私は明けても暮れても沖縄戦のききこみのために、東奔西走した。」の記述がある。
③
『沖縄タイムス[マイクロフィルム複製本] 1970年7月』([沖縄県立図書館]、[2011.3])
1970.7.25 6面 「比屋根先生をしのぶ 石野径一郎」の記事で、「私が比屋根先生とお近づきになったのは、戦後はじめて日本人として先生とお弟子の岩原盛勝氏が米軍命令で沖縄へわたり、私に「ひめゆり部隊」の資料をおみやげにして下さったことにはじまる。…武元さんはこういった。「今の沖縄は、きみもいったように島をあげて牢屋の中にいるようなもんだ」反米思想や左翼思想でものをかいては同胞に対して米軍が偏見や警戒心をもつことになり、不幸の上塗りになるだろうといった。戦後、四回目の正月だったと思う。比屋根先生も全く同様の意見だった。武元さんは別として、占領下の傷跡も生々しい沖縄を踏査して来られた先生にそういわれたのでは、いよいよ決心を固めなければならなかった。私は友人らの嘲笑や攻撃を予想して観念の腹をきめた。その時いわれた比屋根先生の一言が、今もはっきり耳に残っ
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 文学 (9)
- 参考資料
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- 私の戦後史 第9集 沖縄タイムス社/編 沖縄タイムス社 1986.3 (p101-131)
- ひめゆりの国 石野 径一郎/著 わせだ書房新社 1969.9 (p266)
- 沖縄タイムス[マイクロフィルム複製本] 1970年7月 [沖縄県立図書館] [2011.3] (1970.7.25 6面)
- 琉球エデンの園物語 与那城 勇/著 琉球エデン会 1989.5 (p82-87)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000249468