レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年10月14日
- 登録日時
- 2023/05/11 16:19
- 更新日時
- 2024/02/25 11:01
- 管理番号
- 9000036688
- 質問
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解決
武田家の家紋である「武田菱」は江戸時代に作られたものであり、武田信玄が実際に使っていたのは「花菱」だったというのは本当か。
- 回答
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室町時代に武家の家紋図案を集録した「見聞諸家紋(けんもんしょかもん)」には、武田家の家紋として、松皮菱、割菱、花菱が掲載されている。
武田信玄所用の物品については、今回の調査では武田菱(割菱)紋があるものは確認できず、花菱紋のみが確認できた。
武田家の当主は花菱紋を用い、幕などの消耗品には松皮菱や割菱も用いたものと思われる。江戸期に想像で描かれた信玄は、割菱紋を描いた前立をつけたものが多い。
詳細については参考資料をご確認ください。
- 回答プロセス
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1.家紋事典を確認
・『家紋の事典』(高澤 等/著 東京堂出版 2008年)〈資料番号0105307292〉pp.235-236
・『日本家紋大事典』(丹羽 基二/著 新人物往来社 2008年)〈資料番号0104329628〉pp.586-600
※上記2冊には、「見聞諸家紋」掲載の"楯無の鎧"にまつわる武田家の家紋の由来についての記述があった。
2.戦国武将の家紋に関する資料を確認
・『家紋に残された戦国武将五つの謎(青春新書INTELLIGENCE)』(武光誠/著 青春出版社 2010年)〈資料番号0105513477〉pp.102-106→「武田家は古くは、花菱を家紋に用いていたと思われる。そしてのちに、単純な菱形の家紋も用いられるようになったのであろう。」「武田信玄は、武田菱と花菱を用いていた。花菱は、武具以外のものに描かれることが多い。」
・「歴史人 第9巻第2号 通巻86号 2018年2月号 特集:戦国武将の家紋の謎」(KKベストセラーズ)〈資料番号0202470456〉p.40→武田氏が古くから家紋としていたのは「割菱」と「花菱」であったらしい。武田菱の由来は、沼や池に群生する菱から、武田氏の「田」の字を菱形にしたものなど諸説ある。武田信玄の肖像画では、着用している直垂に花菱が見え、寒川神社に奉納した六十二間筋兜にも花菱紋の金具がつくなど、信玄自身は「花菱」紋を好んでいたようである。
3.『山梨県百科事典』を確認
・『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集・発行 1989年)〈資料番号0103544193〉→p.586に「武田菱」の項あり。「花ひしの方が正式に用いられ、割りひしは外用といった感じである。ただし信玄所持の文箱(高野山成慶院蔵)を見ると、切り金で両方の家紋をちらしたものも見られる。」との記述がある。
4.『山梨百科事典』に記載のあった信玄所持の文箱(高野山成慶院蔵)について調査
・『原色武田遺宝集』(野沢公次郎/編 武田信玄公宝物保存会 1972年)〈資料番号0106811011〉→p.61に「家紋散蒔絵文箱」の写真、p.113に解説あり。蓋の上部に金4個、銀2個、側面に金6個、銀2個の花菱がある。武田菱はなし。また、同じく高野山成慶院蔵の「信玄所用の兜」p.37に写真、p.97-98に解説があるが、こちらは祓立に武田菱が描かれている。(高野山成慶院には、信玄没後、武田勝頼の手によって数多くの遺品が奉納されている。)
・『図説武田信玄公:一族興亡の軌跡』(武田神社/編・発行 1994年)〈資料番号0104195029〉→p.241に文箱、p.60に兜
※『山梨百科事典』には「信玄所持の文箱(高野山成慶院蔵)を見ると、切り金で両方の家紋をちらしたものも見られる。」とあるが、これについては確認できず、また、これ以外の文箱があるのかについても確認できなかった。
5.武田信玄の肖像や所用品に関する資料を調査
・『鎧をまとう人びと:合戦・甲冑・絵画の手びき』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2000年)〈資料番号0103819694〉p.229→「実際、信玄が永禄十二年(一五六九)の小田原攻めの際に奉納したと伝える寒川神社蔵の甲冑や、前述の勝頼奉納の伝来のある浅間神社の甲冑など、信頼できる武田家当主の遺品には花菱紋が付いている。武田家の当主が花菱を正式な家紋としていたことは明らかで、ただ、幕などの消耗品には松皮菱や割菱も用いたのだろう。」とある。また、4で確認した高野山成慶院蔵の「信玄所用の兜」について、「前立と兜は本来は別々に作られらたものだ」との記述がある。
・『武田信玄像の謎(歴史文化ライブラリー)』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2006年)〈資料番号0104143508〉pp.26-36→高野山成慶院蔵の「信玄所用の兜」についての疑義について。p.29「一般に信玄は割菱紋を用いたとされ、これを武田菱とよぶほどだが、武田家の総領の家紋は、略式の割菱紋ではなく、花菱紋である。江戸期に大量に描かれた信玄の甲冑姿の画像には、日輪に割菱紋を描いた前立が散見するが、実際には使わなかったろう」、p.34「江戸期に想像で描かれた信玄は、ほとんどが、金か赤の普通の日輪に、割菱紋を描いた前立をつけ…」などの記述がある。
・『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』(三浦 一郎/著 宮帯出版社 2011年)〈資料番号0104563192〉pp.61-63→「江戸時代になると、武田氏が滅亡したにも拘らず、武家の多くが割菱紋を家紋に用いている。この点、本来武田氏の遺物に割菱紋がみられないのに対して、以後のものにみられるのは何とも意外である。」
6.「見聞諸家紋」掲載の"楯無の鎧"にまつわる武田家の家紋の由来について確認
・『群書類従 第23輯 武家部』(塙 保己一/編纂 続群書類従完成会 1980年)〈資料番号0104264957〉pp.409-476に「見聞諸家紋」収載。武田家の家紋は、pp.411-412。永禄5年、源頼義が奥州平定を住吉社に祈願した際、神託により旗一流と鎧一領を拝領した。鎧の袖には割菱があり、頼義三男新羅三郎義光が家紋とした。松皮菱と割菱の図がある。また、「武田大膳大夫・源賢信」として花菱の図あり。
・『国史大辞典 5」(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1985年)〈資料番号0101387694〉p.234→「見聞諸家紋(けんもんしょかもん)」は室町時代に武家の家紋図案を集録したもの。
・『小桜韋威鎧兜・大袖付復元調査報告書:楯無鎧の謎を探る(山梨県立博物館調査・研究報告 1)』(山梨県立博物館/編集・発行 2007年)〈資料番号0104245295〉p.16、p.25、p.43→"楯無の鎧"の花菱紋の金物の写真。武田菱は確認できなかった。
- 事前調査事項
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甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)の展示の説明に書かれていた。
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 系譜.家史.皇室 (288 10版)
- 参考資料
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塙 保己一/編纂 , 塙‖保己一. 群書類従 第23輯 訂正3版. 続群書類従完成会, 1980.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005916961-00 (pp.pp.411-412) -
藤本正行 著 , 藤本, 正行, 1948-. 鎧をまとう人びと : 合戦・甲冑・絵画の手びき. 吉川弘文館, 2000.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002898653-00 , ISBN 4642077626 (p.229) -
藤本正行 著 , 藤本, 正行, 1948-. 武田信玄像の謎. 吉川弘文館, 2006. (歴史文化ライブラリー ; 206)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008043633-00 , ISBN 4642056068 (pp.29-30,p.34) -
三浦一郎 著 , 三浦, 一郎. 武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣. 宮帯出版社, 2011.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011195771-00 , ISBN 9784863660915 (pp.61-62)
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塙 保己一/編纂 , 塙‖保己一. 群書類従 第23輯 訂正3版. 続群書類従完成会, 1980.
- キーワード
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- 武田菱
- 花菱
- 家紋
- 武田家
- 武田信玄
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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※「甲斐国志」の武田菱に関する記載
『大日本地誌大系 47 甲斐国志』(雄山閣 1998年)〈資料番号103540498〉p.21
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000333064