1.『古墳辞典』<210.2/90N>P.362に「前方後円墳のくびれ部に、半円形もしくは方形の突出した壇状の施設をもつものがある。これを造り出しと呼んでいる。造り出しは、前方後円墳のくびれ部の両側に対称的につけられているものと、片側にのみつけられているものとがある。造り出しの性格については埋葬主体説、祭壇説などがあるが、後者が有力と思われる。造り出しをもつ前方後円墳の中では比較的古い時期のものと考えられる三重県石山古墳の例では、造り出しの部分に各種の形象埴輪が配列されていて、あたかも後円部上の内部主体をめぐる埴輪方形列と似てはいるが、埋葬施設のないことからみると、祭壇であったとみる方がよいかもしれない。しかし、後期に属する奈良県二塚古墳の場合には、造り出し部に横穴式石室が設けられていて、土器類の副葬が行われているから、単なる祭壇からやや性格を変えてきているのかもしれない。造り出しは5世紀代を盛期としており、とくに大形前方後円墳に付設されることが多い」とあります。
2.『図解考古学辞典』<320.2/197>p.666の「つくりだし」の項に「...とくに中期の前方後円墳において、くびれ部の両側または1側付設された方壇状の部分をいう。前方後円墳の造出が、いかなる目的をもって付設されたものであるかはあきらかでないが、名古屋市断夫山古墳の西側にある造出から多数の須恵器が発見された事実によって、これを一種の祭壇とみる説が提示されている(大場磐雄『断夫山古墳の造出に就いて』考古学雑誌20-1昭5)。大阪府百舌鳥大塚山古墳でも北側の造出から多数の土師器が出土している。三重県石山古墳のくびれ部の外方に設置されていた方形の祭場のごとき施設が、墳丘に連接してもうけられるにいたったものとみることも可能性がある。なお蒲生君平の前方後円墳宮車説では造出は車の車輪に擬せられ、島田貞彦の広口壺象形説は土器の環耳にあてられているが、いずれも過去の1説にすぎない。」とあります。
3.『日本人はどのように建造物をつくってきたか6 巨大古墳 前方後円墳の謎を解く』<521/10>p.42に「大山古墳の平面図」の中に「造り出し」が描かれています。この本は子供向けにイラストを用いて古墳と古墳の作り方を書いています。特に「造り出し」の意味は説明しておりませんが、p54.の「採土場からも土を運ぶ」の項目の下に「前方後円墳といえば、左右対称の整然とした形を連想しますが、濠に土橋がついていたり、あるいは土橋をはずしたなごりと思える突出部のあることも多いのです。もちろん後世につくられたものもあるでしょうが、これも今までも見落とされてきたことです。大山古墳の左右のくびれ部に突出している造り出しが、土橋のつけ根を利用したものであるという見方もできます。」とあり、またp71「巨大な前方後円墳がほぼ完成する」の項目に「このころ、前方部の西側の土橋もはずされ、墳丘全体の仕上げがいそがれました。また、 くびれ部にある二つの造り出しにも葺石がほどこされ、円筒埴輪がならべられました。造り出しの平坦な地面は、あとで儀式に必要な場所ですから、土をよく固めて念入りにつくりました。」とあります。
4.『前方後円墳』<210.2/2466N>p330に「造り出し (埼玉県二子山古墳6世紀)」の写真があり、「側面拝礼になっている。造り出し部の前にも拝礼の場がある」と書かれており、また次頁には「側面拝礼によって、造り出し部が古墳時代中期に発達したのである。」とあります。
5.『考古学に学ぶ3 森浩一傘寿記念献呈論集』<210.2/2276N>p.405に「造り出しにみる埴輪配置の構造」という論文があります。最初の部分に「墳丘と土橋でつながる造り出しの全貌や、その周辺における形象埴輪群の配置状況も明らかとなり、東海・近畿地域を中心とした古墳時代の研究に大きな成果と研究課題をもたらした。...」とあります。
6.CiNiiで検索いたしますと「井辺八幡山古墳の再検討 : 造り出し埴輪群の配置復原を中心に」『同志社大学歴史資料館館報 10, 13-34, 2007』、「古墳における造り出し周辺遺物群の様相--配置と組成を中心に」『考古学研究 52(3), 54-73, 2005-12 』、「墳丘造り出しと中堤張り出し--埼玉古墳群理解のために」『国学院大学考古学資料館紀要 21, 155-167, 2005-03 』、「「月の輪古墳」--とくにその造り出し陪葬論について」『古代学研究 (27), 1961-04 』がでてきますが、いずれも当館では所蔵しておりません。
7.同じくCiNiiで検索結果の「古墳の祭祀 : 造り出しの埴輪配列から(<文化史学会第一回大会発表要旨>)」『昭和女子大学文化史研究 3 83 1999-06-26』について要旨のみですが、見ることができます。「...造り出しでの祭祀はその中でも最終段階に位置するものと考えられる。さらに4世紀末~5世紀前半の造り出しの遺物状況はいくつか共通点のあることが指摘されている。...造り出しはこの世における死者の霊の依代となる家形埴輪を置き、その霊に供物を捧げ、奉仕する儀礼がおこなわれる神聖な場であった。また、その行為を周囲の人々に見せるようになったために出現したと考えられる。...造り出しの埴輪配列は古墳時代の葬送儀礼を考える上で重要な情報を与えてくれるものと考えられる。」と書かれています。しかしながらこの論文全体については当館で所蔵しておりません。