レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 千葉県立中央図書館 (2120001) | 管理番号 (Control number) | 千県中千葉-2017-6 | ||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2017年09月17日 | 登録日時 (Registration date) | 2018年03月13日 16時31分 | 更新日時 (Last update) | 2018年03月13日 16時43分 | ||||||
質問 (Question) | 子規の俳句「深川や 木更津船の 年籠」 この句は明治32年に作られたはずですが、木更津船は当時まだ運行していたのでしょうか。また、この句の解釈はどのようなものでしょうか。たしか子規は病床にあり、港とか海岸には行けなかったと思います。 | ||||||||||
回答 (Answer) | 1 木更津船は明治32年当時、まだ運行していたのか 以下の資料によると、木更津船は、江戸と木更津間の貨客の運搬を行っていた五大力船などの和船で、徳川幕府から特別待遇を受けていたため木更津船と呼ばれていました。その権益は幕末まで維持されていましたが、五大力船などの和船自体は昭和初期まで航行していたようです。 【資料1】『木更津郷土誌』p.47-52 第8節 江戸時代 木更津船の由来 「江戸時代の木更津港はなかなかの繁昌で、当時の房総の玄関であり、江戸と直結した港情緒をただよわしていたことが想像される。 有名な「切られ與三」の所産も肯かれ明治になってからも遠浅の海中に人力車を乗り入れ、船便に直接する風景が見られた。(中略)江戸時代を通じて木更津村の船主は熱心にこの特権を護り続けたのである。そのために幾つかの事件があった。」p.47-48 【資料2】石井一雄「木更津船から東京湾汽船会社」(『房総路』第29号)p.16-21 「その後、時代の移行に伴い、大正元年(1912)に鉄道が木更津まで開通した。これを契機として、従来から盛況であった海上運輸も、見直し始められた。この結果、木更津発展に著しく寄与してきた、由緒ある木更津船から東京湾汽船会社の権益や湾内運航が次第に衰退して行った。 一、木更津船 …この木更津船の権益は、幕末まで維持し、その後終焉したが、維新後も係る恩恵を別の形で多々受継いだ。」 【資料3】『国史大辞典』p.865 五大力船(ごだいりきぶね) 「江戸を中心に、関東周辺の海運に活躍した五十~五百石積級の小廻(こまわ)しの廻船。主に米穀・薪炭・干鰯の輸送にあたり、江戸時代初期から昭和初期まで使われた。中でも江戸―木更津間を往復した貨客輸送の木更津船(きさらづぶね)が有名である。」 【資料4】『図説 和船史話 図説日本海事史話叢書』p.204-208 五大力 「昭和の初めころの東京湾には、まだ江戸の名残りをとどめた五大力が走っていた。主に房州あたりから東京市民の薪や炭などを運んでいたようであるが、その滑るような帆走ぶりはいまだに眼の底に強く焼きついている。(中略)ところで、五大力の特徴の最たるものは、一般の廻船のように、沖懸りして瀬取船で荷役するということをせず、海からそのまま川口に乗り入れて市中の河岸に横づけし、荷役ができるという点にあった。つまり廻船でありながら、瀬取船の機能も兼ね備えていたわけで、これが小廻しの廻船として五大力の実用性をたかめ、江戸と木更津間を結んだフェリーの木更津船にも使われて、江戸橋西詰の木更津河岸をターミナルとして運航していた。」 2 この句の解釈はどのようなものか この句の解釈見つけることはできませんでしたが、この句が掲載されている資料に、創作当時の意図や背景などが説明されていました。 【資料5】『正岡子規の世界』p.117-118 この句が、他の句と一緒に紹介されています。 「明治三十二年、子規居士三十三歳 この年の俳句にはこうした無碍自在境のあることの窺はれる句が多くなって来ている。もちろん、依然として俳句会も催されていたので、その席上に於ける作句も少なくないが、それですら従前の席上作とは異って、自然味に重きを置く句の方が数を増して来て居るのを見受ける。あるいはまた一題十句なども試みて居る。それ等すら自然の真実味を求めることに専念する傾向が著しい。 (俳句の紹介) など、みな俳句会席上の作であらうと思はれる句であるが、それすら、主として自然味を出すべく、無理の少ない、過去の見聞を主として、それを現すにも穏当平明な調子を以てしているのである。」 【資料6】『子規秀句考 鑑賞と批評』p.356 「冬の東京」を区ごとに詠み合った中にこの句が深川区の1句(3句のうち)として紹介されている。 深川や木更津船の年籠 枯芦を刈りて州崎の廓哉 砂村や稲荷を祭る冬木立 この3句は【資料7】『子規全集 第3巻 俳句』(講談社 1977)p.302、310、236に各々所収されていますが、解釈は記載されていません。 【資料1】p.52 最後に、この句が引用されていますが、解釈は記載されていません。 【資料8】『地名俳句歳時記 2 関東』(中央公論社 1986)p.226 「深川」にこの句が記載されていますが、解釈は記載されていません。 | ||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 木更津船は明治32年当時、まだ運行していたのか 最初に、木更津市の市町村史にあたり、木更津船について調べる。 『木更津市史』p194-206 第3編第1章 江戸時代初期の木更津と木更津船 「この木更津船は、江戸府内の日本橋と江戸橋の中間に、木更津河岸というのが設けられ、徳川幕府から特別の取扱いをうけた。隅田川あたりで、木更津船にあえば、他船はこれを避けて通ったというほど、その勢威を振ったものである。」 『千葉県の歴史一〇〇話』(川名登編著 国書刊行会 2006)p.235-237「木更津船と打ちこわし」 『人づくり風土記 12 全国の伝承江戸時代 ふるさとの人と知恵 千葉』(農山漁村文化協会 1990)p.40-47「上総木更津の繁栄・木更津」 【資料1】【資料2】から木更津船が徳川幕府から受けていた特権については幕末まで続いたが、木更津船は明治時代になってからも航行していたことがわかる。次に、【資料3】【資料4】により昭和初期まで航行していたことがわかる。 2 この句の解釈はどのようなものか 【資料1】にこの句が掲載されていたが解釈はなかった。次に子規の俳句について調査し、【資料5】【資料6】にこの句が掲載されていた。この句についての解釈はなかったが、創作当時の意図や背景などが説明されていた。【資料7】【資料8】に所収されていたが、解釈はなかった。また、『子規全集 第14巻 評論・日記』(講談社 1976)にあたってみましたが、創作した明治32年当時の日記はなかった。 次に子規の句の評釈本にあたるがこの句は掲載されていなかった。(件名:俳句-評釈*全項目:子規) 『俳句はかく解しかく味う 岩波文庫』(高浜虚子著 岩波書店 1989) 『俳句が文学になるとき 五柳叢書50』(仁平勝著 五柳書院 1996) 『明治秀句 新版日本秀句5』(山口青邨著 春秋社 2001) 『名句鑑賞読本 茜の巻』(行方克巳著 角川学芸出版 2005) | ||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||||
備考 (Notes) | |||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||||
登録番号 (Registration number) | 1000232463 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |