レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/03/02
- 登録日時
- 2021/04/02 00:30
- 更新日時
- 2021/06/15 12:40
- 管理番号
- 秋田-2557
- 質問
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解決
①幕末の新屋の統治に関する資料はあるか。
②江戸時代以前の秋田の街道(羽州街道以前)に関する資料はあるか。
- 回答
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以下の資料を紹介。
①『秋田市史 第3巻 近世 通史編』(秋田市/編、秋田市、2003、214.5/アア/3郷)資料番号:124314998
②『戊辰の役と新屋』(伊勢玄二郎/著、1987、A212.1/95/)資料番号:112001193
③『新屋郷土誌』(改訂新屋郷土誌編集委員会/編、日吉神社、1970、214.5/カア/郷)資料番号:111327102
④『羽州街道 秋田県北部一般国道7号その生いたちを訪ねて』(東北地方建設局能代工事事務所/編、東北地方建設局能代工事事務所、1990、682/トウ/)資料番号:111337432
⑤『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』(伊藤清郎/編、高志書院、2002、211/イチ/郷)資料番号:124285057
⑥-a『歴史の道調査報告 北国街道(酒田街道)男鹿街道(潟西街道)大間越街道 1 秋田県文化財調査報告書 第117集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1984、682/アレ/1郷)資料番号:111346094
⑥-b『歴史の道調査報告 来満街道2 秋田県文化財調査報告書 第128集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1985、682/アレ/2郷)資料番号:124241050
⑥-c『歴史の道調査報告 1~7』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1984、A682/12/1-7)資料番号:112109145
⑥-d『歴史の道調査報告 大覚野(阿仁)街道 11 秋田県文化財調査報告書 第144集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1986、682/アレ/11郷)資料番号:112406277
⑥-e『歴史の道調査報告 角館街道 14 秋田県文化財調査報告書 第147集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1986、682/アレ/14郷)資料番号:112406244
⑥-f『歴史の道調査報告 沼館街道 22 秋田県文化財調査報告書 第165集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1987、682/アレ/22郷)資料番号:112406178
⑦『甦る、仙北街道 仙北街道交流踏査20周年記念誌 歴史の道』(胆沢仙北街道20周年記念事業実行委員会
、胆沢仙北街道20周年記念事業実行委員会、2009、682/イセ/郷)資料番号:129301560
- 回答プロセス
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1.『秋田市史』を確認
①『秋田市史 第3巻 近世 通史編』(秋田市/編、秋田市、2003、214.5/アア/3郷)資料番号:124314998
⇒PP.460-466 新屋の海岸警備と、新家の移住についての記述。
2.所蔵資料検索で「新屋」をキーワード検索
②『戊辰の役と新屋』(伊勢玄二郎/著、1987、A212.1/95/)資料番号:112001193
⇒P.3 戊辰戦争当時の百三段新屋村における、戸数、人口、生業や海岸防備についての記述。
③『新屋郷土誌』(改訂新屋郷土誌編集委員会/編、日吉神社、1970、214.5/カア/郷)資料番号:111327102
⇒PP.85-88 文政以後の砂防林補強工事についての記述。
⇒PP.88-90 海岸防備のため、比内南丁へ衛士が移住したという記述。
⇒PP.287-288 幕末当時の肝煎の名前。
⇒P.354 平安時代の頃から、出羽の国府から山形県遊佐より順に海岸づたいに秋田に至る道路ができ、ところどころに駅馬、伝馬が置かれたという記述。
3.所蔵資料検索で「街道」をキーワード検索
④『羽州街道 秋田県北部一般国道7号その生いたちを訪ねて』(東北地方建設局能代工事事務所/編、東北地方建設局能代工事事務所、1990、682/トウ/)資料番号:111337432
⇒P.4 江戸時代までは、雄物川と北代川の水系をたどる街道に大別されたという記述。
⑤『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』(伊藤清郎/編、高志書院、2002、211/イチ/郷)資料番号:124285057
⇒PP.267-294 発掘された中世の街道・古道-秋田県洲崎遺跡の事例を中心に-
4.NDC分類682(交通史・事情)に関する書架をブラウジング
⑥-a『歴史の道調査報告 北国街道(酒田街道)男鹿街道(潟西街道)大間越街道 1 秋田県文化財調査報告書 第117集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1984、682/アレ/1郷)資料番号:111346094
⇒P.31 男鹿街道(潟西街道):文禄~慶長の頃に登場。豊臣秀吉に鷹を献上する際、道中で餌の提供を申し付けているが、その道筋内に出てくる。近世初期において、能代と福米沢と船越の三点を結ぶ線として成立していたという記述。
⇒P.45 大間越街道:承元二年(1208)に十三湊から海岸伝いに土崎湊までの陸路が通じたとされる。中世において政治勢力の南下にともない、北から海路と並行して成立していたという記述。
⑥-b『歴史の道調査報告 来満街道2 秋田県文化財調査報告書 第128集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1985、682/アレ/2郷)資料番号:124241050
⇒P.5 古くから塩の道として交易があった。南北朝時代における八戸南部氏の鹿角・比内・津軽地方への進撃路のほとんどが、この街道筋であったであろうという記述。
⑥-c『歴史の道調査報告 1~7』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1984、A682/12/1-7)資料番号:112109145
⇒PP.5-6 鹿角街道:元慶2年(878)の秋田城救援のため、陸奥側を北上した一隊が通った道として登場。鎌倉期には、北条得宗領として特に重視された津軽地方と結ぶ連絡路の一部となったという記述。
⑥-d『歴史の道調査報告 大覚野(阿仁)街道 11 秋田県文化財調査報告書 第144集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1986、682/アレ/11郷)資料番号:112406277
⇒P.3 中世後期には利用されていた。天正16年(1588)、津軽の大浦為信が南下する際に通過したという記述。
⑥-e『歴史の道調査報告 角館街道 14 秋田県文化財調査報告書 第147集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1986、682/アレ/14郷)資料番号:112406244
⇒P.3 戸沢氏の支配地域であったため、交易や軍事的必要から街道が整備された。南部や阿仁に通ずる交通の要衝ではあったが、大曲の前田氏との間の街道は田舎道であったという記述。
⑥-f『歴史の道調査報告 沼館街道 22 秋田県文化財調査報告書 第165集』(秋田県教育委員会/編、秋田県教育委員会、1987、682/アレ/22郷)資料番号:112406178
⇒P.3 中世末期に、小野寺氏の居館のあった横手城下とその有力家臣の拠る支城を結ぶ幹線ルートとして存在していたと思われるという記述。
⑦『甦る、仙北街道 仙北街道交流踏査20周年記念誌 歴史の道』(胆沢仙北街道20周年記念事業実行委員会
、胆沢仙北街道20周年記念事業実行委員会、2009、682/イセ/郷)資料番号:129301560
⇒P.213、P.224 延暦21年(802)、坂上田村麻呂が胆沢城を築城し、雄勝城と結ぶ最短道路として開いたのが始まり。最初は太平洋沿岸日本海沿岸を結ぶ要路として利用されていたが、陸奥・出羽が平定すると、経済・文化・産業等の道路としてにぎわったという記述。
- 事前調査事項
- NDC
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- 歴史 (2)
- 産業 (6)
- 参考資料
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- 新屋郷土誌改訂新屋郷土誌編集委員会/編日吉神社
- 戊辰の役と新屋伊勢玄二郎/著 (P.3)
- 中世出羽の領主と城館伊藤 清郎/編高志書院 (PP.267-294)
- キーワード
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- 新屋(アラヤ)
- 街道(カイドウ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000296536