レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年02月12日
- 登録日時
- 2016/01/21 16:44
- 更新日時
- 2016/03/11 13:37
- 管理番号
- 埼熊-2015-087
- 質問
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未解決
8世紀に築かれた秋田城柵について、8世紀-10世紀の人々がどのようにして京都から向かったのか、それを示す文献、資料、地図の所在を知りたい。
秋田城柵、秋田城(あきたのき又はあきたじょう)は、日本の古代(奈良時代から平安時代)にかけて、出羽国秋田に置かれた城柵である。
- 回答
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該当する記述のある資料は見つからなかった。
- 回答プロセス
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調査済資料で関連する記述のあった資料
『古代東山道の研究』(一志茂樹著 信毎書籍出版センター 1993)
p401-411「第二篇 第二章 第七節 陸奥路と出羽路」
p405-408 出羽路に関する記述があるが、質問に関するものはなし。
p407に「出羽柵が秋田城と改められ、こゝに國府が遷されるようになってから、再びこの問題(※陸奥国の多賀城から秋田への直路の必要)がとりあげられ、遂に、天平寶字三年九月二十六日、(中略)始めて多賀・秋田兩城間、陸奥・出羽両國府間を通ずる驛路を開いたのである。しかし、(中略)秋田周邊の治安維持が危険を加へるにいたったので、寶龜六年以降において國府を再び出羽郡に遷し、秋田城の規模の漸次縮小するに及んで、驛路は廢されたものと思はれる。」とあり。
『あづまのやまのみち 東山道』(栃木県教育委員会編 栃木県教育委員会 2006)
関東地域の東山道の地図や経路あり。
『東山道の実証的研究』(黒坂周平著 吉川弘文館 1992)
第6章「奥羽の東山道」:秋田城へ向かう東山道の具体的な道筋や駅名や地理地形が実証的に述べられている。
『古代東北と渤海使』(新野直吉著 歴史春秋出版 2003)
p56 大野東人が多賀柵(宮城県)から出羽柵に直通連絡路を開通させる旨の記述あり。
「最上から山を越えて山北に入る道路もなく、その山北から由利沿岸部には出ず、直接内陸を秋田に向かう公路も開かれていなかった」とあり。
『古代の交通 日本歴史叢書 24』(田名網宏著 吉川弘文館 1969)
p227「就役民の行旅と調庸・雑物の輸送」に国と行程の表あり。
出羽は東山道にあたり、往路は47日、帰路は24日。
『東北古代史の研究』(高橋富雄編 吉川弘文館 1986)
p360「多賀城から出羽柵へ通ずる内陸路の開拓計画をたてたのは(大野)東人がはじめてであって、それ以前は多賀城から西へ奥羽山脈を横断した後、山形県の月山の南側を迂回するか、最上川沿いに酒田まで下るかして秋田県由利地方に出て現在の秋田市まで達するというコースがとられていたこと、(中略)出羽地域は国が設置される和銅五年以前は越後国の管轄下にあり、その間の交通手段もおそらく海路をとっていたであろうことなど、(後略)」とあり。
『出羽の国』(新野直吉著 学生社 1973)
p100「彼ら(※征越後蝦夷将軍・副将軍)の軍事活動の中心になったのは「征狄所」という軍事基地で、それは「出羽柵(いではのき)」とよばれる施設の中に営まれていたとみられる。それは(和銅)2年7月に「諸国をして兵器を出羽柵に運送せしむ。蝦狄を征するためなり」という記述と、越前・越中・越後・佐渡四国をして船一百艘を征狄所に送らしむ」という記述が『続日本紀』にあることで判断される。」とあり。
p119「多賀柵・秋田出羽柵間交通関係略図」あり。
現在の宮城・山形・秋田の陸路の図あり。この図の説明が、p118-120「雄勝への道」の項にあり。類似の図がp140「東人軍の行動路程図」にもあり。
- 事前調査事項
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質問者調査済資料:
『秋田城跡』(伊藤武士著 同成社 2006)
『古代の道 完全踏査』(武部健一著 木下良監修 吉川弘文館 2004)
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 秋田市-遺跡・遺物
- 東山道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187309