レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年01月06日
- 登録日時
- 2022/08/02 11:17
- 更新日時
- 2022/08/25 16:45
- 管理番号
- 中央-1-0021557
- 質問
-
解決
緑区の上野田で明治~昭和30年頃にお茶を生産していたようだが、その生産規模が知りたい(生産量、生産者数等があれば)。
「緑区上野田は歴史的にお茶の生産地だった」「市場を通して都内に出荷して生活を成り立たせていた」「自給自足的に個人の自宅レベルで作っていたのではなく、地域の産業として成り立っていたのではないか」と考えており、それを証明できる文献資料を知りたい。
- 回答
-
以下の資料を紹介した。野田村のお茶の生産に関する記述はあったが、上野田に限った記述は見つからなかった。
・『浦和市史調査報告書 第9集』 浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1979年
・『埼玉県総合農林業振興計画(昭和33年3月)』埼玉県 1958年
・『埼玉県北足立郡事一班』埼玉県北足立郡農会/編纂 埼玉県立浦和図書館 1983年
・『浦和市史調査報告書 第7集』浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1979年
・『浦和市史 民俗編』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1980年
・『浦和市史調査報告 第12集』浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1981年
・『浦和市史 第4巻 近代史料編1』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1975年
・『さいたまの茶葉 大海を渡る 第42回特別展』さいたま市立博物館/編 さいたま市立博物館 2018年
・『埼玉県行政文書件名目録 産業編』埼玉県立浦和図書館文書館/編集 埼玉県 1970年
- 回答プロセス
-
○『浦和市史調査報告書 第9集』 浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1979年
p44「上野田」の項に、「萩原伊一家では荻原久作家と組んでイイシゴトをした。三代程前の人が、久作家をたよって、お茶作りなどしていた関係でつき合いが始まった。」の記述あり。p5に萩原伊一 (明治40年生)の記述あり。
○『浦和市史調査報告書 第7集』浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1979年
p40「上木崎」の項に「茶畑は五月の末ごろが忙しい」の記述あり。上野田に近い地域でもお茶の栽培が行われていたことが分かった。p3によると話者は明治27年~44年生まれの方々。
△『明治十三年〜十九年迅速測図二万分之一 埼玉県』昭和礼文社
上野田付近に茶畑の地図記号なし。
→質問者に伝えたところ、「静岡の茶畑のように敷き詰められていたのではなく、生垣としてお茶の木を使い、収穫していたのではないかと思う。茶畑として認識されていないかもしれない。生垣とは言っても、結構な量のお茶が取れたと思う」とのこと。
○『埼玉県総合農林業振興計画(昭和33年3月)』埼玉県 1958年
p428 北足立中央部畑地域「農林業の現況」土地利用状況 茶園76戸
○『埼玉県北足立郡事一班』埼玉県北足立郡農会/編纂 埼玉県立浦和図書館 1983年
野田村のお茶生産者の戸数、面積、生産量
△『浦和市史 通史編3』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1990年
p461「第六節 公設市場と生鮮食料品市場の展開」
市場で扱われた品について記載があるが、お茶については書かれていない。
△『近世武蔵の農業経営と河川改修』黒須茂/著 さきたま出版会 2015年
×『享保期における町人請負新田の開発 武蔵見沼加田屋新田の場合』田中嗣晴/著 田中嗣晴 1982年
△『新編埼玉県史 資料編21』埼玉県 1982年
p110第二節 勧農政策の展開「19 桑茶植付奨励の布達」
桑茶を植えるように告知があり、茶園が多くなったという内容の記述はある。
そのほかに、狭山茶に関する箇所、明治前期「第五節 商品作物の発展」、明治後期「第三章 地主制下の農林業」大正期「第一節 地主・小作の動向」内には参考になる箇所は見つからない。
×『新編埼玉県史 資料編22』埼玉県 1986年
恐慌期の農業に関する章で茶に特化してまとめた箇所はない。
○『浦和市史 民俗編』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1980年
p20、合併前の各村の特徴を紹介する欄に「上野田村」の項目あり。農産物についての記述もある欄だが、上野田村の農産物については「水田は黒土で稲作には適さず」とあるのみ隣村の「代山村」には「麦、茶、芋などに適す」「生渋、茶、白木綿など輸出す」との記述あり
p171、代山村の茶つみの様子を写した写真あり(昭和6年)
p250、大間木の屋根屋(大正13年生まれ)の話として「田んぼの下仕事終えるとこの辺ではお茶摘みなんだ。お茶積んで、その時分に屋根仕事にでていったことずいぶんある」とあり
p396、「日常飲むお茶も今では家で作ることがなくなった。しかし、これもかつてはどこの家でも自家用にお茶の木を植え、お茶を作っていた。大牧では終戦前ごろまでつくっていたといわれ、市の中心部である常盤町でも昔は茶畑を作ってお茶をつくったといわれている。市内にはお茶の葉を出荷していたところもあった」とあるので。古い家にお茶の生産道具が残っているのは特別なことではない?
△『浦和市史 第4巻[1] 近代史料編1』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1975年
p323、野田村(合併後)の明治23年分の製茶産額、収穫量あり。他のページにもお茶についての統計があるが、野田(上野田)ではない。
×『埼玉振興史 産業篇』埼玉評論社 1942年
p75-76「浦和市の農耕産物を観る」
野田の地名なし。お茶についてもふれられていない。
×『農村財政に関する調査』埼玉県農政課/編 埼玉県 1951年
旧浦和市の辺りは調査村の該当なし。
×『埼玉県総合農林業開発振興計画』埼玉県庁農林部 埼玉県総合農林業審議委員会/編 埼玉県庁農林部 埼玉県総合農林業審議委員会 1950年
『埼玉県総合農林業振興計画』と同じく郡別までで村名が出てこない。
○『浦和市史調査報告 第12集』浦和市総務部市史編さん室/編集 浦和市 1981年
p1「厚沢春男家文書」の解説によると、旧代山村は、明治22年7ヶ村合併により野田村大字代山区となり、その後美園村となったとのこと。
p2「農業経営資料としては、(略)明治十年代以降の製茶…」とあり。
p65「厚沢春男家文書」の標題の中に「茶畑産額取調表」「茶畑反別御届ケ」あり。
×『耕地及び普通作物累年統計 昭和45~50』関東農政局埼玉統計情報事務所/編 埼玉農林統計協会 1981年
茶についての記載なし
△『埼玉農林統計年報 昭和41~42年』農林省埼玉統計調査事務所/編集 埼玉農林統計協会 1967年
p16 県内の茶畑の耕地面積の記載あるが、上野田の内訳は不明。
p112 地域別茶生産量の記載あり。上野田は「北足立農業地区」に含まれると思われるが、詳しい内訳は記載なし。
△『明治前期全国府県別統計集成 6 群馬県 埼玉県の統計』藤井隆至/編 東洋書林 1997年
p94~97 茶の生産について記載あり。北足立郡の製茶家の数1557と記載あるが、上野田の内訳は不明。
×『埼玉県統計年鑑 第1回』埼玉県総務部統計課/編集 埼玉県総務部統計課 1954年
p109に茶の作付け総面積の記載があるのみ。
×『埼玉県茶業協会 創立三十周年記念誌』埼玉県茶業協会/編 埼玉県茶業協会 1981年
県立図書館に調査協力を依頼。回答いただいた資料のうち、さいたま市図書館で所蔵している資料は以下の2点。
○『さいたまの茶葉 大海を渡る 第42回特別展』さいたま市立博物館/編 さいたま市立博物館 2018年
p31「明治23年茶畑面積・製茶量比較表(埼玉県行政文書・明1520から)」に野田村あり。
○『埼玉県行政文書件名目録 産業編』埼玉県立浦和図書館文書館/編集 埼玉県 1970年
p13「明1520」茶業関係の文書複数あり。「明1520-10 24.11.17 各郡ヨリ製茶産額調」
p110「明1511-15 16. 製茶家及製茶ノ産額」あり。内容の詳細は不明。
p11「明1512-7 17. 製茶産額表」あり。内容の詳細は不明。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213)
- 工芸作物 (617)
- 参考資料
- キーワード
-
- さいたま市緑区
- 茶
- 照会先
-
- 埼玉県立熊谷図書館
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000319589