レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年07月25日
- 登録日時
- 2018/12/08 00:30
- 更新日時
- 2023/12/20 00:30
- 管理番号
- 3A18005095
- 質問
-
解決
淀川改修工事について調べています。
『旭区史』p.111の7行目に、「17年2月、淀川改修工事によって・・・旭区に編入された。」とあります。
また、同p.47の最後から3行目に「(淀川改修工事が)明治43年に完成した。」とあります。
これら「淀川改修工事」は同じ事業なのでしょうか?
またそうだとすれば、明治43年から昭和17年までの間は、東淀川区の一部が分断されていたと読めばいいでしょうか?
- 回答
-
明治43年に完了した淀川改良工事(ご質問内容の「淀川改修工事」)により屈曲の大きい守口市から東淀川区への河道付替えが行われ、橋寺町等東淀川区の町が淀川の南北に分かれたようです。
その後、このままでは不便だということで、昭和17年2月1日に淀川左岸に属した豊里三番町・豊里町・橋寺町・南大道町及び来た大道町の区域を旭区に編入し、さらに昭和18年4月1日に分増区が行われ、河川・運河・鉄道及び軌道・地勢の高低などを区の境界線とするようになったようです。
淀川改修工事について、また当該町が所属する区の変遷について記述のある資料を以下に紹介いたします。
(1)『淀川百年史』建設省近畿地方建設局/編集 建設省近畿地方建設局, 1974<当館書誌ID:0000244962>
p.1792-1809「淀川百年史年表」があり、明治元年から昭和49年までの淀川史について掲載されています。
p.1796「明治30年」に「淀川改良工事に着手(明治43年度まで)」とあります。
p.1800「大正7年」に「淀川改修増補工事に着手(昭和8年度まで)」とあります。
p.1802「昭和8年」に「淀川低水工事に着手(昭和23年度まで)」とあります。
p.1802「昭和14年」に「淀川修補工事着手」とあります。
p.1804「昭和28年」に「木津川補修工事に着手(現在)」とあります。
p.1806「昭和37年」に「緊急高潮対策工事に着手(昭和39年度まで)」とあります。
p.1808「昭和44年」に「淀川修補工事、淀川改修工事と改称」とあります。
p.1806「昭和49年」に「淀川工事着手100年(明治7年から起算)」とあります。
(2)商用データベース「JapanKnowledge」(日本歴史地名大系)【淀川】
〔近代の改修〕の項に「明治二九年に着手され四三年に完成をみた淀川改修工事は、明治政府がヨーロッパの先進技術を導入して初めて実施した大河川事業である」、主な下流の工事としては「神崎川の締切り、屈曲の大きい守口(もりぐち)(現守口市)から大道(だいどう)(現東淀川区)への河道付替え、旧淀川(大川)の毛馬閘門・洗堰の設置による締切り、中津川を一部利用した新淀川放水路の開削など」とあります。
(3)『淀川改修増補工事概要』内務省大阪土木出張所/編 内務省大阪土木出張所, 1930<当館書誌ID:0080200802>
大正十五年度施工し昭和六年竣功の淀川改修増補工事の概況に関する資料です。
附図「淀川改修増補工事竣功平面図」に下流の川幅の拡張等工事概要のわかる図が掲載されています。この工事での豊里町のあたりの川幅や川流の変更はありません。
(4)『水都大阪と淀川 : 新淀川100年 : 特別展』大阪歴史博物館/編集大阪歴史博物館, 2010.9<当館書誌ID:0012169842>
p.91「Ⅲ 淀川の改修と新淀川:新淀川誕生と流域社会」に「図11 淀川流域の変遷と遺物散布地点(正式二万分の一地形図 吹田・大阪東北部(明治41年測図)」があり、淀川流域の変遷がわかります。
上記の明治41年測図は、当館に所蔵があります。2万5千分1地形図「大阪東北部」測量年昭和7年、昭和45年等も所蔵しています。
(5)国土交通省国土地理院ホームページ
(http://www.gsi.go.jp/ 2018.8.1確認)
昭和初期の地形図が閲覧可能です。
国土交通省国土地理院>地図・空中写真・地理調査>図歴(旧版地図)
●2万分1正式図を選択、日本地図を拡大していき、大阪府「大阪府東北部」及び「吹田」をクリックしますと、該当の地図を閲覧できます。また、同様に
●2万5千分1地形図「大阪府東北部」をクリックしますと、測量年1924(大13)以降の地形図を閲覧できます。
参考まで、旭区に編入される前および後が確認できる地図を以下に紹介いたします。
(6)『[1枚ものの地図]-昭和初期の大阪 : 第2次市域拡張後』(新修大阪市史歴史地図 図7) 大阪市, [1996] <当館書誌ID:0013497467>
旭区が出来る前、東淀川区が淀川で一部分分断されていることが図で見てとれます。(昭和5年)
(7)『[1枚ものの地図]-太平洋戦争末期の大阪 : 昭和20年』(新修大阪市史歴史地図 図8) 大阪市, [1996] <当館書誌ID:0013497468>
旭区が成立し、東淀川区から該当地域を編入した図が確認できます。
(8)『地番入大阪市図 : 五千分一』大阪市/著 ; 日下 伊兵衛/編輯 和楽路屋, 1931.3<当館書誌ID:0012456681>
p.6「豊里」のページに淀川上および淀川北側に「豊里三番町」、淀川北側に「大道町」、淀川南側に「北大道町」および「南大道町」、淀川をはさんで北側南側両側に「豊里町」、「橋寺町」が掲載されています。町名索引帳のp.2「橋寺町」、p.3「豊里町」「豊里三番町」、p.11「北大道町」、p.21「南大道町」がありいずれも(東淀)とあります。
(9)『地番入大阪市図 : 五千分一(第2回訂正増補)』 大阪市/地形図 ; 日下 伊兵衛/編輯 和楽路屋, 1933.5<当館書誌ID:0000298391>
p.6「豊里」のページに淀川上および淀川北側に「豊里三番町」、淀川北側に「大道町」、淀川南側に「北大道町」および「南大道町」、淀川をはさんで北側南側両側に「豊里町」、「橋寺町」が掲載されています。町名索引帳のp.2「橋寺町」、p.3「豊里町」「豊里三番町」、p.11「北大道町」、p.21「南大道町」がありいずれも(東淀)とあります。
(10)『大阪市地図 : 最新地番入 昭和26年度版』和楽路屋/[編] 和楽路屋, 1951<当館書誌ID:0080212239>
p.6「豊里」のページに淀川北側に「豊里三番町」、淀川北側に「大道町」、淀川をはさんで北側南側両側に「豊里町」、「橋寺町」が掲載されています。町名索引表のp.1「橋寺町」の所在区は「旭區」「東淀川區」、p.2「豊里町」「豊里三番町」およびp.5「北大道町」、「南大道町」は「東淀川區」とあります。
質問時に確認済の『旭区史』および『東淀川区史』の関連記述は以下のとおりです。
(11)『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会, 1983<当館書誌ID:0070035195>
p.47「第一章 概説:二節 区政発足までの歩み」の「新淀川の完成」の項に「(明治)三十二年に着工、神輿土川が誕生した。」、「着工して十一年、明治四十三年に完成した。」とあります。
p.109-111「第二章各説:一節 区制」の「旭区の誕生」の項に「(昭和)十七年二月、淀川改修工事によって、豊里三番町、豊里町、橋寺町、南大道町、北大道町の全部または一部が、東淀川区から旭区へ編入された。これらの地区は、もと淀川の右岸にあった。ところが、淀川改修工事で左岸へ移ったため、(中略)川を隔ててなにかと不便なことから、区界変更されたもので」とあります。
(12)『東淀川区史』川端 直正/編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会, 1956<当館書誌ID:0000253623>
p.7「第一章 東淀川区の誕生」に「この区域は広大であり、新淀川の左岸と右岸にまたがっているため種々の点に生活上不便のものがあったので、まず昭和十七年二月一日淀川左岸に属した豊里三番町・豊里町・橋寺町・南大道町及び来た大道町の区域を旭区に編入し、ついで十八年四月一日には根本的な分増区が行われ、従来のような錯雑した町村区域によらず、新区境界は明白な河川・運河・鉄道及び軌道・地勢の高低(丘稜線)などによった。」とあります。
また、該当する町の町域の変遷等に関する記述のある資料を以下に紹介いたします。
(13)『大阪の町名 : その歴史 上巻』大阪市市民局/編集 大阪市市民局, 1990.3<当館書誌ID:0010764332>
「旭区」の章に以下の記述があります。
・p.313「豊里三番町」
「(明治)29年度から着手された淀川改修工事で大字三番の一部は淀川河川敷になり、村域は淀川の領域に分かれたので、明治34年12月24日に大字天王寺庄との間において相互換地された。大正13年4月1日に大阪市に編入され、東淀川区豊里三番町の一部となった。昭和17年2月1日の行政区域の変更にともない、東淀川区豊里三番町のうち、淀川左岸地区が旭区豊里三番町となった。」
・p.314「豊里町」
「明治29年度から着手された淀川改修工事で、大字天王寺庄の一部は淀川河川敷になり、村域は淀川の両岸に分かれたので、同34年12月24日に大字三番との間に相互換地を行った。大正14年4月1日に大阪市に編入され、伊賀市淀川区豊里町の一部となった。昭和17年2月1日の区の協会変更にともない、東淀川区豊里町のうち、淀川左岸地区が旭区豊里町となった。」
・p.316「橋寺町」
「明治29年度から着手された淀川改修工事で大字橋寺と大字南大道・大字北大道の各一部は淀川河川敷になり、村域は淀川の両岸に分かれた。大正14年4月1日に大阪市に編入され、東淀川区橋寺町・南大道町・北大道町の一部となった。昭和17年2月1日の行政区画の変更にともない、東淀川区橋寺町・南大道町・北大道町のうち、淀川左岸地区が旭区橋寺町・南大道町・北大道町となった。同25年5月12日に南大道町・北大道町の全域を橋寺町に編入された。」
(14)『大阪の町名 : その歴史 下巻』大阪市市民局/編集 大阪市市民局, 1992.3<当館書誌ID:0010764328>
「東淀川区」の章にp.190「北大道町」、「北大道町一~二丁目」、p.195「豊里三番町」、p.197「豊里町」、p.201「南大道町」、「南大道町一~二丁目」があります。いずれも町域の変遷についての記述はありますが、淀川改修工事についての記述はありません。
- 回答プロセス
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1.『旭区史』の「淀川改修工事」についての記述を確認。(資料1)
2.当館蔵書検索で、フリーワード“淀川”ד改修”ד工事”でヒットしたものを確認し、資料2を見つける。
3.『東淀川区史』の淀川関連の記述を確認。(資料3)
4.大阪の町名に関する参考資料を確認し、資料4、資料5を見つける。
5.地番入り地図を確認し、資料6、資料7、資料8を見つける。
6.当館蔵書検索で件名“淀川”で検索し、資料9、資料10を見つける。
7.当館所蔵の1枚物の地図を確認し、資料11、資料12を見つける。
8.商用データベース「Japanknowledge」の「国史大辞典」で「淀川」の項について確認。(資料13)
9.国土地理院のホームページで地図を確認。(資料14)
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <0070035195> 旭区史 大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 (資料1)
- 当館書誌ID <0080200802> 淀川改修増補工事概要 内務省大阪土木出張所/編 内務省大阪土木出張所 1930 (資料2)
- 当館書誌ID <0000253623> 東淀川区史 川端 直正/編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会 1956 (資料3)
- 当館書誌ID <0010764332> 大阪の町名 -その歴史- 上巻 大阪市市民局/編集 大阪市市民局 1990.3 (資料4)
- 当館書誌ID <0010764328> 大阪の町名 -その歴史- 下巻 大阪市市民局/編集 大阪市市民局 1992.3 (資料5)
- 当館書誌ID <0012456681> 地番入大阪市図 -五千分一- 大阪市/著 和楽路屋 1931.3 (資料6)
- 当館書誌ID <0000298391> 地番入大阪市図:第2回訂正増補 -五千分一- 大阪市/地形図 和楽路屋 1933.5 (資料7)
- 当館書誌ID <0080212239> 大阪市地図 -最新地番入- 昭和26年度版 和楽路屋/[編] 和楽路屋 1951 (資料8)
- 当館書誌ID <0012169842> 水都大阪と淀川 -新淀川100年- 大阪歴史博物館/編集 大阪歴史博物館 2010.9 (資料9)
- 当館書誌ID <0000244962> 淀川百年史 建設省近畿地方建設局/編集 建設省近畿地方建設局 1974 (資料10)
- 当館書誌ID <0013497468> 太平洋戦争末期の大阪 -昭和20年-(新修大阪市史歴史地図 図8) 大阪市 [1996] (資料11)
- 当館書誌ID <0013497467> 昭和初期の大阪 -第2次市域拡張後-(新修大阪市史歴史地図 図7) 大阪市 [1996] (資料12)
- 商用データベース「JapanKnowledge」(日本歴史地名大系)(2019.9.10 確認) (資料13)
- 国土交通省 国土地理院 http://www.gsi.go.jp/ (2019.9.10 確認)(資料14)
- キーワード
-
- 淀川
- 改修工事
- 大阪府大阪市旭区
- 大阪府大阪市東淀川区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000247593