レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/01/01
- 登録日時
- 2019/02/01 00:30
- 更新日時
- 2019/02/01 11:24
- 管理番号
- 滋2018-0030
- 質問
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解決
京都嵐山の渡月橋の歴史を調べている。明治以降の流失および架橋の年代などが分かる資料はないか。
- 回答
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渡月橋について、『京の橋物語』には「明治になっても人がやっと一人通れるほどの仮橋が架かっていたていどであった。そして明治二〇年ごろに比較的立派な橋になったが、これも五年後に流失したという。その後の橋も構造的に粗末なもので、橋板や高欄の破損もしばしばで修理の絶え間がなかったといわれる。先代の橋は明治四二年に架かった木橋で、昭和六年七月の洪水で約五〇メートルが流失した。昭和九年になってやっとコンクリート杭、鋼桁の橋になった。この橋も洪水時には無傷ではなかった。何回かの補修の手が加えられ、昭和五〇年には歩道部が取り付けられた」とあります。
明治期の渡月橋は、『京都慕情』に明治初年および明治20年頃の写真が掲載されています。明治初年の橋について、「牛馬や車の通行はできない」との記述があります。また、明治20年頃の橋について、「明治25年梅津上野橋とともに強雨で流失。明治42年157m巾4mの本橋ができた」とあります。
昭和9年に架けられた橋は、『日本の木の橋・石の橋 歴史を語るふるさとの橋』に「昭和九年全面改築され、長さ155.5m、幅11m(旧橋の三倍)のSRC桁となっている」とあります。同資料には、「この橋の上流側には、暴れ川を物語るように流木防護工が設けられているが、これは旧橋になかった物」とも記載されています。なお、『京の大橋こばし』には、昭和26年の台風の際に「欄干はそっくりなぎ倒され、土台だけがかろうじて残った」とあります。
また『橋を楽しむ 歴史で辿る日本の橋・中国古代橋梁・韓国伝統橋』には「周辺風景のイメージを壊さず、外形は従来の木橋の形態を保存し、車社会に対応できる鉄桁橋に換えた疑似木橋である。木桁のイメージを表現するため、1径間約10m(15径間)、1径間に12本の主鉄桁をコンクリート被膜して桁高を低くし、側面は木の桁隠し、欄干は檜材を用いた和風格子形式、親柱は一尺(30.3cm)の角材など、鉄桁でありながら木橋の形態を保つ工夫がされている」と記載されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 橋梁工学 (515 8版)
- 参考資料
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- 1 京の橋物語 松村博∥著 松籟社 1994年 Y-5150-マ p.164
- 2 京都慕情 田中泰彦∥[ほか]編集・解説 京を語る会 1974年 2-2916-タ p.69-70
- 3 写真で見る京都今昔 菊池昌治∥著 新潮社 1997年 3-2162-キ p.11-13
- 4 日本の木の橋・石の橋 村瀬佐太美∥著 山海堂 1999年 Y-5150-ム p.54
- 5 京の大橋こばし 京都新聞社∥編著 京都新聞社 1982年 Y-5150-キ p.66-69
- 6 橋を楽しむ 平野暉雄∥著 上田裕一∥監修 日本写真企画 2014.3 Y-5150-ヒ p.12
- 7 京都写真館 白幡洋三郎∥監修 淡交社 2010年 GB-2162-シ p.113
- 8 橋 平野暉雄∥著 光村推古書院 2000年 Y-5150-ヒ p.47
- 9 橋を見に行(い)こう 平野暉雄∥写真・文 自由国民社 2007年 Y-5150-ヒ p.59
- 10 京をわたる 読売新聞京都支局∥編 淡交社 1993年 Y-5150-ヨ p.61
- 1 京都の歴史 8 古都の近代 京都市∥編 学芸書林 1975年 2-2162-キ
- 2 京都府百年の資料 7 建設交通通信編 京都府立総合資料館 京都府 1972年 2-2162-7
- 3 史料京都の歴史 4 市街・生業 京都市∥編 平凡社 1981年 2-2162-4
- 4 史料京都の歴史 14 右京区 京都市∥編 平凡社 1994年 2-2162-14
- 5 昭和の京都 浅野喜市∥写真 光村推古書院 2010年 3-2162-ア
- 6 京都の歴史災害 吉越昭久∥編 片平博文∥編 思文閣出版 2012.8 G-2162-ヨ
- 7 京都市今昔写真集 [白幡洋三郎]∥[監修] 樹林舎 2008年 GB-2162-シ
- 8 日本の橋 日本橋梁建設協会∥編 朝倉書店 1994年 Y-5150-ニ
- キーワード
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- 渡月橋
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000250929