レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年02月26日
- 登録日時
- 2013/03/13 09:59
- 更新日時
- 2013/06/11 19:22
- 管理番号
- 埼熊-2012-282
- 質問
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解決
薩摩(鹿児島)藩の甲州別伝流は、どのような兵法か。流祖は誰か。
- 回答
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『武芸流派大事典』『武芸流派辞典』等の資料に、流祖について記載があった。
その他、〈甲州別伝流〉について関連の記述のあった以下の資料を紹介した。事典類を調査
『武芸流派大事典』(綿谷雪、山田忠史編 新人物往来社 1969)
p233〈甲州別伝流(軍法)〉の項あり。
「甲州流の末派。赤神勘左右衛門高明。一に赤上ともあり。尾州の人。武州忍藩主の師範になった。はじめ服部八郎左右衛門について甲州流を学ぶ。後、同門の井上徹斎の統を継いだ。寛保元年死す。七十二歳。甲州流系譜参照。」とあり。
p235〈甲州流系譜〉中に、赤神勘左右衛門高明(甲州別伝流)を祖とする別伝流の系譜あり。『武芸流派辞典』(綿谷雪共、山田忠史共編 人物往来社 1963)
p129〈甲州別伝流(軍法)〉の項あり。
「甲州流の末派。赤神勘左衛門 - 園田与藤次成芳 - 園田与藤次成苗 - 園田与藤次成庸(兵学家小伝)」とあり。兵法に関する資料を調査
『日本兵法全集 1 甲州流兵法』(石岡久夫編集 人物往来社 1967)
p2-55「総論(特にp47-51甲州流の学統)」を確認するが、甲州別伝流関係記述なし。
p437 系譜に「赤上高明」あり。「勘左衛門、尾州の人、初め直景に従学、甲州流別伝という。武州忍藩主阿部豊後守正允の師範」とあり。高明のあとは大久保資茂(手鑑流)へと続いている。『日本兵法史 兵法学の源流と展開 上』(石岡久夫著 雄山閣 1972)
p300「高明は勘左衛門と称し、尾州の人、初め服部直景に従学し、甲州流別伝と称した。藩主阿部豊後守正充の兵法師範となった。」とあり。
p345「松山定申系の甲州本伝流服部直景から出た赤上勘左衛門高明は、甲州別伝を称したが、この末流は前記とは全く異なった名称の伝書を伝えた。(中略)薩摩の徳田邕興が新流として攻撃の対象にしたのは、この系統に属するものであり、その伝書及び伝授様式の詳細が、邕興の著『韜習余論』『兵家発揮』等に記載されている。」とあり。p345からp349にかけて榊原藩永野系統の伝書及び講授様式についての詳細な記述があるが、「その系統は赤上系の流れが浸透し、講授段階及びその内容は、ほぼ同様であったと推測される」とあり。薩摩藩に関する資料を調査
『鹿児島県史 2』(鹿児島県 1980)
p919「園田成芳の門流は以上の諸家と類を異にし、甲州別傳流といふ。即ち、小幡景憲より松山八郎左衛門・服部善兵衛を経て、尾張浪人赤上勘左衛門に至り、園田成芳は赤上の傳を受け、元文二年閏十一月、藩の異国方軍制を改めるに與り、寛保元年、七十二歳で歿した。かの延亭頃の川上親埤門の実学派は、此の流派の軍学を学び、よって、兵学派といったが、甲州古流の軍学者より中傷を受け、遂に処分されたといふ。園田の子孫は代々此の家学を承け、成芳の孫成庸に至り、初めて軍師となった。成庸は、文化八年、歿した。」とあり。(注に「人物伝備考附録 島津国史巻32」とあり。)『新薩藩叢書 3』(新薩藩叢書刊行会編 歴史図書社 19719)
p1-317「称名墓志」収録。
p98〈園田與藤次成芳〉の項あり。「初め伊右衛門と云ふ大玄公御草履収にて数々江戸にゆく江戸住居尾張浪人赤神勘左衛門に就て甲州別伝流の軍術を皆伝す世人是を新流と云ふ」 *〈園田與藤次成苗〉〈園田與藤次成庸〉の項もあり。
p319-368「人物伝備考附録」収録。p350〈園田與藤次成芳〉の項あり。
p369「島津家御旧制軍法巻鈔」あるが、甲州別伝流ではなく合伝流。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 古代兵法.軍学 (399 9版)
- 参考資料
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- 『武芸流派大事典』(綿谷雪、山田忠史編 新人物往来社 1969)
- 『武芸流派辞典』(綿谷雪共、山田忠史共編 人物往来社 1963)
- 『日本兵法全集 1 甲州流兵法』(石岡久夫編集 人物往来社 1967)
- 『日本兵法史 兵法学の源流と展開 上』(石岡久夫著 雄山閣 1972)
- 『鹿児島県史 2』(鹿児島県 1980)
- 『新薩藩叢書 3』(新薩藩叢書刊行会編 歴史図書社 19719)
- キーワード
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- 武道
- 兵法
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000128807