レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月04日
- 登録日時
- 2012/02/04 15:07
- 更新日時
- 2012/08/30 13:25
- 管理番号
- 97-B-3
- 質問
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解決
山之内の明堂さん(越智郡大西町。現在は今治市大西町)について知りたい。
- 回答
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【資料1】を調べてみると明堂仏堂について記されていた。
詳しくは明堂観音と呼び大井寺の境内仏堂として昭和十年公認仏堂として加川泰賢住職の努力により、善男善女の急増を見るにいたったこの仏堂は、山之内小山に在り本尊に聖観世音菩薩を安置す(俗にお狸さんと呼ぶが浮説も甚だしい。)
この堂の起源は延元元年後醍醐帝の皇子尊真親王が、この地に薨去遊ばされたので、岡部重茂山主、神野怪島弓杖城主の諸士が大井寺法印と相図り、宮の御冥福を祈るため現在地へ、廟堂(オタマヤ)を建て聖観世音菩薩を安置せるに創る。(明堂は廟堂より転化したものであらう)。その後兵火に遭ったが岡部氏の努力で、山桃の樹下へ再建した様である。その後天正年間に再び兵火の難に会い再建ならず荒廃し、僅かに大井寺並びに村の信者たちによって維持されている状態であったが、弘化元年(1844)山桃樹下より、宝篋印塔の発掘安置により霊験あらたかになり、数年間は非常な参詣者を見たが、眷族(ケンゾク)狸の邪教とみなされ、弘化の禁をうけ衰退の一途をたどった。
昭和に入り科学万能の世相に民衆は心の安らぎを求めんがため、明堂の観音信仰は再燃し昭和8年より数ヵ年間、この信仰は関西一円に普及し、日夜寛客は踵を接し、海岸までも門前町が出来る有様で堂宇の狭隘をきたしたので浄財により大改築をした。現在の堂宇がそれである。
【資料3】を調べてみると、”項目4、奈良朝時代と明堂の本寺清林寺とあり”明堂縁起より引用する”「仏教渡来後の四国は僧行基の巡錫に依って益々信仰が加はり、天平13年4月8日、現在の明堂菩薩本寺の大井寺が建立せられ、宝亀10年8月明堂菩薩本寺清林寺(現在なし)が創建せられて衆生を済度した。当時は仏教宗派のない時2寺ともに無宗。」とある。少し腑に落ちない点もあるが、明堂の今の場所に清林寺の末寺が建立されていたのかも知れない。本寺は別府にあった気もする。庄屋だった越智家の文書にあり、別府に今も清林寺田と言われている土地がそれらしき所にある。
”項目5、明堂の建立は南北朝時代か”
「北條氏専政のために後醍醐天皇は天政復古を企てられ賊徒誅伐の兵を起こされた。常時勤王の志が厚い伊予の土居、得能両氏の許へ帝は第六王子尊真親王(蓮明親王)満良親王、懐良親王を下された。三親王は岡部出羽守忠重(後に重茂城主となる)神野近江守頼綱(後怪島城主)神野十郎通頼(後に弓杖島城主)など40余人を率いられ建久2年11月に怪島弓杖島に着航された。
河野伊代守兼禅正大弼越智宿彌通政等は、三親王を奉迎し、清林寺(現明堂所在地)大井寺(現明堂本寺)法隆寺を仮宮と定めて仕へ奉り、為に伊予勤王の諸軍は大いに振ったが、宮の家臣が諸国に兵を集められた留守中(延元2年12月10日)に、賊兵30余人攻め来ったので清林寺法印成戒、成道、大井寺法印義泰等は防戦に努めて討死にし、為に宮は恙なく渡らせられたが後に危険を感ぜられて懐良、満良両親王は当地を去られた」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185 9版)
- 伝説.民話[昔話] (388 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】 『大西町誌』 大西町誌編纂委員会/編集 大西町教育委員会 1977年 <請求記号:K292.2 /17>
- 【資料2】 『大西の伝説』 大西中学校生徒会/収集 大西中学校 1971年 <請求記号:K388 /15>
- 【資料3】 『怒麻 第14号』 大西町史談会/編 大西町史談会 1992年 <請求記号:K222 /21 /14>
- 【資料4】 『怒麻 第17号』 大西町史談会/編 大西町史談会 1995年 <請求記号:K222 /21 /17>
- 【資料5】 『大西の史跡を訪ねて』 大西町教育委員会/編集 大西町教育委員会 1986年 <請求記号:K292.2 /32>
- キーワード
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- 明堂仏堂 みょうどうぶつどう
- 狸-愛媛県 たぬき えひめけん
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 事例出典『郷土資料に関する調査・相談事例集』 愛媛県図書館協会・愛媛県立図書館/編集 愛媛県立図書館 1997年
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000101130